崇徳上皇伝説 | 果てなき旅路

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こんにちは。


今回は、前回までの保元の乱の番外編となるのてすが、敗れはしたものの、しかしながら後世まで伝説として、あるいは悲劇のヒーローとして名を残した人物の登場です。


崇徳上皇です。


讃岐に流された崇徳上皇    歌川国芳画


この方は菅原道真平将門」といった方々と、日本の三大怨霊として非常に有名であり、非業なる死から「何か祟りがあるにのではないか?」と何かと脚色された感じがあります。

今回の崇徳天皇は、死ぬ直前に我、日本国の大魔王となり、天皇家を呪うと宣言!「日本最大の怨霊」と呼ばれるほどの人物です。


繰り返しとなりますが、崇徳上皇は父親は公的には鳥羽上皇とされていますが、「本当の父親は曾祖父の白河法皇ではないか?」と当時では噂されており、いわば公然の秘密でした。


鳥羽上皇にしてみれば、当然ながら本当の息子である次男・後白河天皇の方が可愛いでしょうし、逆に白河法皇にしてみれば、鳥羽上皇の長男(実の息子?)・崇徳上皇を何かと気に掛けていました。

その後ろ盾もあってなのか、当時天皇として在位中だった鳥羽天皇は、21歳で第一皇子の崇徳天皇に半ば強引に譲位させられ、その後も実権を白河法皇に握り続けられていました。


息子であって息子でない崇徳に、帝位を奪われるというかたちですよね。


こればかりが原因ではないのですが、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する嫌悪は最後まで凄まじいものがありました。

生前、鳥羽上皇は「崇徳には自分の死に顔を見せるな」と遺言していたというお話は、前回の保元の乱の時にも触れたことです。


自分の子と思っていない
鳥羽上皇、それでも父親と思っている崇徳上皇・・・二人の溝は最後まで埋まることが出来ませんでした。


そんな鳥羽上皇の死をきっかけに、両陣営は激しくなりますが、後白河天皇側から挑発を仕掛け勃発したのが保元の乱でしたね。

それに巻き込まれるように藤原家、源氏、平氏たちも親兄弟に分かれ争いになりましたが、結果は崇徳上皇側の敗戦。


この戦いに敗れた崇徳上皇は、讃岐の国に流刑となるのですが、天皇もしくは上皇の配流は、奈良時代の淳仁天皇以来、約400年ぶりの出来事となりました。


こうした中で都に戻る望みは絶たれ、皇位も剥奪され、虚しい日々を過ごす崇徳上皇は、自らの血を使って写経をし京都に送ります。


崇徳上皇は、「二度と京の都には戻れないだろう…。」という想いから、せめて自分が書いたお経だけでも、京の都に戻りたいという願いを込めたのですが・・・

ほどなくして都から送られてきた文箱の中には、破かれた自分のお経があり、崇徳上皇は怒りのあまり、庭に飛び出しその場で舌先をかみちぎったと言われています!!


そしてその血で「天下滅亡」という呪いの言葉を書き残し、「われは日本の大魔王となりて天皇を呪い続ける!」と呪詛をかけ、数日後憤死してしまいます。 


呪詛には、「天皇を民に貶め民を天皇にする」という文言があり、天皇を権力の座から引きずり落とし、普通の人間に権力を渡してやるという意味です。


さて、崇徳上皇の憤死後、後白河天皇 ー この時代は法皇の身内に、怪異が続くのですが、まずは、後白河法皇の息子の二条天皇が在位中に23才という若さで亡くなります。

その後、息子の后である中宮、自らの女御が一月をあけずに若くして亡くなり、その十日後には孫である六条天皇までが13才で亡くなってしまいます。




画像はお借りしました


怪異あるいは不幸、否まさにこれこそが怨霊なのでしょうか・・・後白河法皇自身が祟られるのではなく、法皇の身内に不の連鎖が襲いかかっています。

自身の身内が、身代わりにバタバタと亡くなっていく姿を見せつけられるほど、残酷なことはないでしょう。

なぜなら、身代わりの意味合いを、法皇以上に分かっている存在はいないのですから。



さらに不の連鎖は続いており、京の都の3分の1を焼く大火が起こり、死者は数百人にも及び、後白河法皇が暮らす御所も火事の被害に遭います。

京の都の3分の1を焼く大火が起こった翌年にも火災が発生し、この二つの火災や天皇家に起こる相次ぐ不幸は、崇徳上皇の祟りに違いないという噂も広がります。


さすがに感じるものがあったのでしょう、ここへきて後白河法皇は・・・崇徳上皇を手厚く祀りはじめました。


しかしながら、怨霊ともいうべき厄災は収まる気配はなく、その後、平清盛たち平家が権力を握り、やがて源平合戦、そして源頼朝による鎌倉幕府の成立ー武士が政権を握ることになっていきます。


それからしばらく武士による政権は続くのですが、なんと言っても特徴的なのは、戦国時代に農民出身の豊臣秀吉が天下を取るという事態に至り、「天皇を平民に平民を天皇に」という崇徳上皇の呪いが、まさに実現したとも言えるのではないでしょうか。


その後も約400年間、天下を武家ー徳川家に取られ、崇徳上皇の怒りは収まったかのようですが・・・

そんな徳川家による幕府が崩壊し、明治維新で再び天皇が国家の中心に戻ると、新しい国家体制を作っていくにあたり、明治天皇は崇徳上皇に対してあることを行います。


それは、明治天皇の即位の礼の際に、700年ぶりに崇徳上皇の御霊を四国ー讃岐から京都に移すという祀りでした。

これから近代国家を築くにあたり、日本最大の怨霊と呼ばれる崇徳上皇に対して、和解をするということを行ったのですね。


天皇の巡幸と同じように御輿と400人もの従者を伴った大がかりなお祀りで、崇徳上皇の御霊は京都に戻り白峯神宮に奉じ、逆に国家の守り神として奉ることにしたのです。




京都府・白峯神宮


これは捉え方、感じ方の違いが様々にあると思うのですが、崇徳上皇は自らが復讐のために動くお人ではなかったように思われます。

というのも自分ではどうしようもできない出生から、父・鳥羽上皇から憎まれ、数々の仕打ちを受け続け、その嫌悪の念は息子の後白河天皇にまで引き継がれていきました。


天皇家の子として生まれたことを嘆き、呪うことが人生の終焉となる・・・なんとも悲しく切ない思いになりますね。