こんにちは。
天海和尚は、天台宗の高僧で、武田信玄や豊臣秀吉にも仕えたと言われていますが、出自に謎が多く、一説には135歳まで生きたという噂のある怪僧です。
政治の表舞台には出て来ませんが、三代徳川家 ー家康~家光ー に仕えたとも言われており、その存在と影響力は並々ならぬものだったのでしょう。
さて天海といえば、風水的魔術によって結界を作り上げるということを、前回のブログでお話しをしました。
そして天海は、将門公の魔方陣よりも、さらに大掛かりな風水的魔術ー最強の結界を作り上げたのです!!
まずは、江戸城の表鬼門ー北東には神田明神を置き、さらにその延長線上に上野の寛永寺を置いて鬼門封じを強化させました。
次に裏鬼門には、日枝神社置き、さらに防備を高めました。
そして最後にとどめとばかりに、江戸のはるか北・・・日光に徳川家康を祀った東照宮を置いたのです。
その時、家康を神として祀る際、“神号”をどうするかで揉めごとが起こります。
ここで対立したのが、「権現」を主張する天海と、「明神」を主張するもう一人のブレーン和尚・金地院崇伝。
世間巷では、ブラック和尚対決なんて言われていますね~(笑)
結果、家康の神号は「権現」へ決定したのですが、それは「明神」は豊臣秀吉の神号ー『豊国大明神』と同じであり、秀吉と同じ末路になると天海が主張したためでした。
こうして家康は、最強の守護神ー「権現」様となり、江戸の町を守り続けたのでした。
本能寺の変で、織田信長を自害へと追い詰めたあの明智光秀です!!
一般的に光秀は、豊臣秀吉との決戦ー山崎の合戦で敗れ、落ち延びる最中に、落ち武者刈りの土民の竹槍によって、命を落としたとされています。
しかし!土民が光秀の首を秀吉の陣営に持参したのは3日後であり、腐敗が激しく本人かどうか確認できなかったとも言われています。
そして!そして!! 実際は生き延びて比叡山で身を隠し、しばらく過ごしていたと…。
では何故に光秀は天海なのか?
ここでいくつか根拠をあげてみましょう…。
・日光東照宮には桔梗紋があるのですが、それは徳川家の家紋ではなく、明智光秀の家紋なのです。その桔梗紋が至るところにあるのは、何か意味があるのでしょうかね?
・日光には明智平と言う場所があります。ここの名前は天海がつけた名前なのですが、明智と言う名を世に残したかったからと言われています。本人以外が、他人の名前を場所名にしてまで残したいと思うでしょうかね?
・『光秀』と言う人物が比叡山に寄進したとされる石灯籠。そこには、慶長20(1615)年という寄進年が刻まれており、本能寺の変は1582年なので、これは全く時代が合わない事になりますよね?
・光秀の木像と位牌がある京都・慈眼寺の寺号と、天海の諡号(死後に送られる尊称)である「慈眼大師」は同じ慈眼。これはただの偶然なのでしょうか?
これらの根拠が、意味している事はなんなのでしょうか?
もしある仮説を立てるならば、天海はあくまで光秀であって、尚且つ、光秀の娘婿であり重臣であった明智秀満が、光秀の後に二代目天海として徳川家に仕えたということです。
つまりどういうことなのか・・・?
天海が100歳を超える当時としては、驚異的な寿命であったことを考えると、光秀が初代を演じ、秀満が二代目を演じて、明智家二代に渡り天海として生きたということです!!
果たして展開は明智光秀だったのか?
もしも本当に天海と光秀が同一人物だったとしたら、秀吉に滅ぼされた光秀が、天海となって徳川家を支えることで、天下統一の野望を果たしたのかもしれませんね。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
M.Tominaga