児玉雨子『##NAME##』(河出書房新社、2023年) | 不条理に抗う:女性アイドル最高評議会

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こんばんは。

 

19日に選考会が行われる芥川龍之介賞の候補作である児玉雨子『##NAME##』(河出書房新社、2023年)を読みました。

 

理由は、本作の主人公が、小学生のころに引き受けた水着撮影の仕事が児童ポルノ法改正後もデジタルタトゥーとして残り、成人後の社会生活に悪影響を及ぼすことに苦しむ元ジュニア・アイドルだからです。

児玉雨子はすでに『誰にも奪われたくない/凸撃』でデビューを果たした作家であるまえに、モーニング娘。、℃-ute、アンジュルム、BEYOOOOONDS、OCHA NORMA、Juice=Juice、宮本佳林など、ハロー!プロジェクトの多くのグループ、音楽アーティストに歌詞を提供していることで知られます。

 

結論から言うと、私はこの作品が受賞してはいけないと思います。『誰にも奪われたくない/凸撃』からは大きく進歩しているのですが。一応、最近の受賞作はすべて読んでいます。

 

15日に紀伊國屋書店新宿本店で直筆サイン入りをみつけたので、迷わず買いました。

 

 

 

 

芥川賞について。そもそも、芥川賞とは、純文学の新人作家が書いた短編・中編に与えられるものです。長編を対象外とすること、これが純文学の新人三賞と言われる芥川賞、野間文芸新人賞、三島由紀夫賞のうち、芥川賞の特徴です。出版の世界で「短編」の定義は決まっていて、四百字詰め原稿用紙100枚以下です。「中編」は101枚から300枚まで。そうすると、300枚の中編を単行本として刊行しても200ページに満たないのです。200枚なければもっと薄いです。ですから、せめていくつかほかの短編も加えて、単行本を出すのが当たり前でした。

しかし、出版界も不況にあえでいます。ですから、私が過去の記事で映画の世界で消耗品が増えていると申し上げたのと同じように、出版社は刊行点数を増やすことで売り上げを維持しようとしています。昔は芥川賞の候補になったぐらいではそんな薄い単行本は出版されなかったのですが、今では選考会に間に合わせて候補作決定後の一か月のあいだに単行本を刊行するのが当たり前になりました。作家も印税を稼げる時代ではないので、やる気が失せないように単行本を刊行して達成感を与えてやりたいという親心もあるのでしょうが、薄いものをたくさん作ることで利益を上げていかざるをえない日本文化は見通しが暗いのです。

 

 

さて、本論に戻って、児玉雨子『##NAME##』について議論します。

前半、中盤と、十年前水着撮影を仕事として引き受けたジュニア・アイドルが現在そのデジタルタトゥーー水着写真が彼女の本名=芸名でネット検索したときに引っかかるーーに苦しんでいくさまが述べられていきます。先日埼玉県のプールでのジュニア・アイドル水着撮影会が中止されたことも思うと、目のつけどころはいいのですが、しかし、著者が切迫感なく自分の知識を書いているだけのようにしか読めません。主人公の独白というかたちを取ってはいますが、しかし、主観の混じった文学的な表現はなく、ジュニア・アイドルのある問題に対する一種の客観的な報告であるとしか読めません。また、ネット上の漫画が劇中劇として登場しますが、現代的知識のひけらかしに終わらず、物語にとって必須の展開だったでしょうか。終盤、一転して純文学的な文体が溢れ出しはします。しかし、改名するという結論も、お悩み相談に対する回答のようにたいへん実践的で、純文学としては退屈です。序盤、中盤の文体だけを見るなら、この小説はエンターテイメント小説に分類されるでしょう。

 

以下、具体的な記述について。

まず、都合のよすぎる展開が目につきます。もちろん少女買春は許さない、作品の評価と作者の罪とは分けて考えるべきだとは言わない、という著者の姿勢はいいです。まだジャニー氏の性加害が話題に上るまえにこう言い切ったことは評価したいですが、しかし、これは著者が『ABEMA TV』に出演したさいに、小山田圭吾氏がいじめを娯楽として消費したことを擁護してしまい、炎上したことに対する反省でしょう。主人公の好きな漫画の作者が児童買春、児童ポルノ法違反で逮捕されるのも、最近起きた事件に便乗して、都合のいいストーリー展開を作り上げているだけに思います。

次に、まだ小学生であった主人公の現実認識が早熟すぎる点が数か所ありました。たとえば、28ページ。子どもにしては身長が高く、面長の私にはカメコは寄ってこなかったという主旨の文章がありますが、子どもがそんなに自分の欠点を客観的に把握できるものでしょうか。

それから、実践的な解決策が不公平、不公正です。主人公は、大学の同級生から、社会に対して本当の悪いやつを告発することや、社会に対して自分の経験、所感を告白することを勧められますが、しかし、それを他人のおせっかいとして斥けます。そして、改名という実践的解決だけではなく、後述の文学的解決を提示していきます。その一方で、改名という解決策には、子どもを守らず、親のエゴで水着撮影を許容した名づけ親でもある自分の親から離れて自立するという意味も含まれています。それは同時に親を断罪する、捨てることであり、そこに著者の思う社会的正義とみなしうるものがあるのですが、親だけが断罪されるのは不公平ではないでしょうか。マネージャー、ロリコンのカメコなど、断罪されるべき大人はほかにもいるでしょう。

最後に、文学的解決策もゆがんでいます。著者は文学的な解決も提示します。主人公は、最後、一方的にかつての同輩にシスターフッドを感じていき、それもまた改名の理由の一つだと暗に主張していきます。主人公は新たな名前として昔その同輩がつけてくれた名前を選択します。しかし、主人公とジュニアアイドルの同輩とは同じ被害者でも事情や環境ーー親のエゴと出世欲、就活生とレスラーの伴侶ーーが異なるし、終始、相互理解が成り立っていません。これも、最後に何の役にも立たないシスターフッドをご都合主義で作り上げているようにしか思えませんでした。

 

そういうわけで、私は市川沙央『ハンチバック』の高い下馬評を覆してまで児玉雨子『##NAME##』が芥川賞を受けるとは思いません。

しかし、大人の事情を考えると、受賞の可能性はゼロではないでしょう。芥川賞選考会は年2回行われます。80年代は20回開催されて「該当作なし」の回がなんと8回もありました。しかし、現在では、主催者からの圧力で必ず受賞作が決定します。二作受賞の圧力もあるようですね。そのことを考えると、この小説が受賞できないこともないでしょう。

 

それでは、次は、広末涼子の著作の書評でお会いしましょう。