「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」に思うヒーロー像。 | カーク船長がプラモつくってみた(映画レビューも)

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この映画を見た人に読んで欲しい。

「ヒーローとは何か?!」

についてである。

「グリーンランタン」、「ファンタスティック4:2」、「マン・オブ・スティール」などのヒーロー映画に並び、「マイティ・ソー:2」でも地球規模の破壊が描かれている。
この、ヒーローが敵と戦い"世界"を守る構図にはある欠点がある。

それは規模の大きさ故のリアリティーの欠如=共感の欠如である。

「スーパーマン」でのヘリコプター救出シーン、「アイアンマン」でのテロリストからの民間人救出、「スパイダーマン」での火災現場からの民間人救出など、超人的な力を持つヒーローが人命を助けるシーンには共感する力がある。
「頑張れ!」「よくやった!」と心に思い浮かべながら、画面に引き込まれるこの要素こそ、ヒーロー映画に必要なファクターであると私は思う。

火災から人を救うのと、地球を巨大な悪から守ること。
この2つを比べた時により圧倒的ヒーロー感を演出できるのはあるのは明らかに後者である。しかし、規模が大きいが故に身近なものとして考えることは難しく、共感を生むことは火災現場で救助シーンのそれと比べると劣ってしまう。

「ソー:2」ではこの人命救助シーンが大規模に描かれているため、少なくとも私は主人公=ヒーローに共感できず、客観的にスクリーンを観るのみとなってしまった。
共感のできないヒーローほど残念なものはない。


またヒロインが危機にさらされるシチュエーションはヒーロー映画の十八番だが、それがヒーローがヒーローたる理由となってはいけないと思う。
例えばバットマンやスパイダーマンは親族の死が理由で悪を倒す感情が生まれている。
アイアンマンは自ら開発した武器がテロリストに使われ人命を奪っているという事実に直面し、自責の念から立ち上がる。
スーパーマン = カル=エルは徹底した道徳を教育され、善と悪の明確な区別を基に行動する。
それに付随してヒロインを守るシーンがある。
ヒーローであるが故にヒロインを守るのである。

しかしソーがヒーローたる理由は恋人ジェーンを守ることだけである。
もともとアスガルドの王の息子として生まれたソーが世界を守るのはある種の義務というか宿命である。なぜヒーローであるのかの回答が、ヒーローであることが職だからでは共感も何もない。
また、ソーは戦いが好きという人格からして、精神面ではヒーローとは言い難い。
そのソーが地球を救う理由はただ一つ。恋人を守ると約束したからだ。
実際、「アヴェンジャーズ」でも真っ先にジェーンを気にかけていた。
強大な力を持った男がヒロインを助けるために地球を救う。
ヒロインがいる故にヒーロー(という扱い)なのである。

仮にジェーンが死んだとしたらソーは地球のことを気にかけるのか?
はなはだ疑問である。

恋人を守ることに主眼を置いた「ソー:2」はヒーロー映画としてはあまりにも共感を生まないものとなってしまったのではないか。

今回はヒーローというものについて視点を置いてレビューしたため辛口となったが、パーツパーツを見ると悪くない。
クロスオーバー(キャプテンアメリカの登場)や、洗練された映像美、音楽、ギャグ要素はおおむね満足するものであった。
ただやはり鑑賞後には「何か足りない」と思う点があり、それが何かを考えたところこの「ヒーローとは何か」にたどり着いたわけである。