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↓『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』川口マーン惠美著、講談社、2013)より引用(01)


(ドイツで)脱原発法案が可決された直後を改めて思い起こすと、あのときが幸せの絶頂だったといえるだろう。
EU内で孤立しつつも脱原発に向かって突き進む自分たちの姿に、国民はほとんど恍惚状態だった。
脱原発のためなら生活が少々不便になっても構わないと本気で思っていた。
「自分たちは、物質的豊かさよりも倫理を尊ぶ民である。たとえ電気代が高くなろうが、生活が不便になろうが、貧乏になろうが、世界中で自分たちだけが正しいことをしているのだ」と信じていた。


……しかし、実際にはそれは不可能だ。
ドイツ人にとっての脱原発は、停電の心配がなく、冬の夜中もベッドのなかで震えることなく、蛇口をひねればいつでも熱いお湯が出るのが前提だ。
その状態を手放すことなど、想像さえできない。


冬に布オムツを冷たい水で洗わなければいけないなら、私は三人も子供を産むことはなかっただろう。
しかし、電力不足で産業の稼働率が下がり、国が貧しくなったときに私たちが陥る生活の悲惨さは、冷たい水でオムツを洗うことなどとは比較にもならないほど凄まじいはずだ。


貧しい国の暮らしを、すでにドイツ人も日本人も知らない。


ドイツのエネルギー転換――これはいわば、GDPを下げずにエネルギー転換ができるかどうかという壮大な実験なのである。


↑(引用ここまで)
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私はどちらかというと、「脱原発」寄り、「不便を受け入れよう」という考え方の持ち主だと思います。


ただ、「脱原発」を謳う政党が、川口氏も言う『電力不足で産業の稼働率が下がり、国が貧しくなったときに私たちが陥る生活の悲惨さ』をどこまで理解しているのかが、疑問に思うことがあります。


そりゃあ、3.11であれだけの原発事故を起こしておいて、「”安全”なんかよりも、”産業”を重視すべきだ」と面と向かって言い切れる人は、あまりいないでしょう。
「原発はすべて廃止すべきだ」と、思っている国民の方が多いかもしれません。


でも、だからこそ言いたい。
「どのくらい不便になることを想定していますか?」「どのくらいの”不便”だったら受け入れられますか?」と。


「脱原発」をさも絶対的正義のように振りかざすのであれば、「計画停電やら電気代の高騰やらで産業はみるみる衰退するし、生活はかなり不便になりますよ」ときちんと言えよ、と。


暗くなったら電気を消して、寝る。
日中も、贅沢をせずに慎ましく暮らす。
計画停電中は、冷暖房はもちろん使えない。
…そんな高度成長以前のような暮らしを日本国民が受け入れられるか、どうか。


受け入れられないなら、「原発」に頼るしかない。
「原発もイヤだけど、不便もイヤ」なんてワガママを叶えてくれる、超ウルトラ級のエネルギーなんて、どうやら存在しないようですから(笑)。


結局は妥協点を探していくしかないのでしょうが、最近は特に「脱原発」を口にする人たちが、それに付随する「不便」について言いたがらない現状に一言物申したいと思い、こう書きました。


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