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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(06)


(乙武氏と、精神科医の泉谷閑示氏の対談より)


泉谷:親が子育てに専念するようになったこと自体の歴史がまだ浅いんですよね。
大家族が多かった時代は、働き盛りの親に代わって、隠居した祖父母や、子どもを育て上げたおじさん、おばさんなど、手の空いた人が子どもの面倒を見ていました。


専業主婦というあり方も近代になってからです。
昔は女性も農業や店を手伝ったりして働いている人が大半だった。
さらに、近年どんどん電化されて、家事が楽にできるようになりましたから、その余ったエネルギーを子どもの教育に思いっきり注ぐようになった。


乙武:数十年前までは、まだまだ生きることに必死な時代でしたから、子育てと言っても、子どもの生命を維持するための最低限の衣食住を整えて、労働力となる大人へと成長させるという側面が強かった。


だけど、先生がおっしゃるように親の側が時間的にも精神的にも余裕が出てきたうえに、家庭のなかで育てる子どもの人数が減ってきたこともあって、「こういうふうに育てたい」という親の理想や意思を子育てに入れ込むようになってきたように思うんです。


それは一見すると子どもにとってプラスのことのように見えますけど、実は親の理想や意思が、逆に、子どもがまっすふに伸びていくことを阻んでしまうことがあります。
もちろん、うまくプラスに働いているケースもあると思いますが、マイナスに働いていることのほうが、もしかすると多いんじゃないかな。


↑(引用ここまで)
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私も「育児」に従事しながら、こうして「どういう育児、どういう生き方をすべきなのか」なんてあれこれ考えられるのは、数十年前に比べて『時間的にも精神的にも余裕が出てきた』世代だからなのかもしれません。


ありていに言えば、良くも悪くも「ヒマだから」。


乙武氏や泉谷氏も指摘するように、父親や母親も忙しく、子どもの数も多かった頃のほうが、親もあれこれ「育児」について悩むヒマなどなく、子どももいい具合に「放置」され、祖父母やおじさん・おばさんなど大勢の大人と関わることができて、「過保護」にされることもなく、比較的バランスのとれた「育児」がなされていたように想像できます。


特に、子ども自身が家庭の中で「そんなに注目されていない、特別扱いされていない」ところがいいですよね。
大人たちには既存の「コミュニティ」があって、子どもも、新参者の自分がオマケ程度の存在であることは嫌でも理解できてしまいます。
そりゃあ中には、祖父母を中心に「過保護」にかわいがられて育った子どももいたでしょうが、少なくとも現代よりは大人たちも皆忙しく、食べることに必死で、ネットやDVDなんていう娯楽ももちろんなく、そこそこ「自分で工夫して暇つぶしをする」必然はあったと想像できます。


それが、現代ではどうでしょうか。
家事が電化されてラクになってきたとはいえ、炊事・洗濯・掃除をはじめ、祖父母やおじさん・おばさんがやってきた子どもへの多様な関わり、そしていい具合の「放置」…これらすべてを主婦(夫)ひとりでこなしている家庭が大多数なのではないでしょうか。
…そりゃあ、主婦の関心事が分散されずに、「育児」「わが子」に偏ってしまうのも頷けます。


「だから、数十年前のように大家族で育てるべきだ」「あの頃はよかった」なんて、安易な懐古主義を展開する気はありません。
ただ、今さら大家族、という時代でもないのは皆さん異論のないところでしょうから、私たちにできることは、あえて「意図的に子どもを放置する」「『こういうふうに育てたい』なんて色気づくのはおこがましい、と考えるようにする」というあたりではないでしょうか。


数十年前では「子どもばかりにかまっているヒマはない」「自分や家のことで忙しい」ことが、良くも悪くも必然的にあった。
でも、現代ではそれがない。
「自由な時間ができた」のではなく、「子どもを適度に放置する時間が”なくなった”」と考えれば、意図的にそういう時間の割り振り方に持っていくしかないのではないでしょうか。


そういう意味では、私もあれこれと、「育児」に意識を傾けすぎなのかもしれません。


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