------------
↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(11)
それよりも親にとって大事なのは、夢破れた子供のために逃げ道を用意しておいてやることだね。
勘違いしてほしくないんだけど、それはエスカレーター式の学校にやったり、貯金や資産を残してやろうって話じゃなくてさ。
人間は決して平等じゃない、努力したって報われないことのほうが多いっていう厳しい現実を、子供の頃から親の責任で叩き込んでおいてやるってことなんだよ。
オイラがガキの頃は、自然にそうだった。
ウチの近所なんて、「学者になりたい」って子供には「無理だよ、お前バカなんだから」で終わり。
そういう毎日だから、子供はおのずと自分の「分」をわきまえることを覚えていったんだよ。
今じゃ世の中豊かになって、たいがいのものは手に入るようになった。
それで、子供も世の中も、「努力すれば夢は叶う」と勘違いしてしまったのかもしれない。
でも本当は「努力すれば叶う夢もごくまれにある」ってことなんだよ。
男ってのは、自分には才能がないとわかってからが勝負なんじゃないか。
親父にできるのは、いつか子供がうまくいかずに傷ついた時に、それでも生きていけるような強い心を育ててやること。
だから、子供の心を傷つけることを恐れちゃいけないと思うんだ。
↑(引用ここまで)
------------
…『子供がうまくいかずに傷ついた時に、それでも生きていけるような強い心を育ててやる』。
親や教師は、子どもといつまでも並走してやれないのですから、子どもがひとり社会に放り出されても、へこたれず生きていけるような、しなやかで強い心を育ててやる。
これこそが、「しつけ」「教育」の目的だと思うんです。
私たち大人の、子どもたちに見せる振る舞いひとつひとつが、そこから逆算されたものであれば、他の細かいことなんて、どうでもいいと思うんです。
「子どもにばかり目を向けず、自分自身も魅力的な人間であるよう努める」のも、もちろんそのひとつです。
子どもが外へ出て、親や教師の知らないところで他人にいじられ、恥ずかしい思いをすることも当然あるでしょう。
…だったら、日ごろから適度にいじってやらなきゃ。適度に恥ずかしい思いをさせて、内心反省したり、笑い飛ばしたりする機会を与えてやるべきですよね。
過保護に「おまえは正しいんだよ、おまえは大切な子どもなんだよ」と、そんなメッセージばかり子どもに与えていたら、外でいきなり「おまえなんて別に大勢の中のひとりだし、大切でもなんでもない」という扱いをされたら、心折れてしまうかもしれませんよね。
先日、私の父が、妹の子ども(3歳)を児童館で遊ばせていたところ、他の子とおもちゃを取ったり取られたり、ちょっと小競り合いみたいになっていたそうなんです。
そこで、父のとった行動は、「傍観」。
心配してケンカを止めに行くどころか、「さてさて、奴はどうやって解決するんだろう? 見ものだ」と、ちょと離れたところで楽しんで(?)傍観していたと言うのです。
結果は、多少の小競り合いの後、妹の子どもは「なんやコイツ、うっとうしいなあ」みたいな目をしながら、別のおもちゃのところに行って、ひとり楽しそうに遊んでいたそうです。
…う~ん、正解! ですよね。
子どもは今後も、幼稚園やら小学校やら、少なくとも親の目の離れたところで、いじめたり、いじめられたり、多少の小競り合いに遭遇するに決まっています。
そんなときに、いちいち親や教師が割って入って「仲良くしようね」なんて仲裁してあげ続けられるはずもありません。
自分で解決していくしかないのです。
しかしながら、子ども同士で小競り合いをしているのを目の当たりにしたら、ついつい手や口が出てしまいそうですよね。
もしくは、相手の母親かなんかから「なんで止めないで見てるんですか!」とキレられる可能性すらありますよね(笑)。
…さすがは我が父です。教育の「目的」からの逆算がしっかり染みついています。
「今、ここで大人が手を差し伸べるべきかどうか」という瞬間的ジャッジが的確だった事例と言えます。
とはいえ、こんな偉そうに言っている私だって、子どものトラブルに対して、いつでも正しい判断ができている、なんて口が裂けても言えません。
しかし少なくとも、「子どもが転んでも、自力で起き上がるまで手を差し伸べない」「子どもどうしのトラブルに、すぐに割って入らない」選択肢をもった大人、教育の「目的」を見誤らない大人でありたいと、心底思うのです。
