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↓『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』(みうらじゅん・リリーフランキー著、扶桑社、2011)より引用(11)
リリー:自分が何かを発明しよう、オリジナルになろうと思ってもなんにもならないですよね。
全部、これまでの経験から影響を受けている自分がいて、その様子と佇まいがオリジナルに見えてくればいいくらいのもん。
そうやって仕事していくなかで、「これおかしいな。気に入らないな」というのを排除したり、「これいいな」というものをミックスしていくわけじゃないですか。
みうら:でも最近、NHKでやってた『トップランナー』的な、仕事がすごきデキちゃう人を紹介する番組がいっぱいあるでしょ。
若い人がそんな番組を見ちゃうと、「すごい人にならなきゃいけない」って思い込んじゃうんじゃないの。
L:あれはテレビ番組だから、普通に仕事してる人がすごく見えるように演出してあるのにね。
↑(引用ここまで)
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すごい人…いわゆる「成功者」「成り上がり」「人生の勝ち組」みたいな人を、テレビやら雑誌やらネットやらで、見せすぎなんですよ、庶民に。
そりゃあ、「自分もがんばれば、ああなれるのでは?」「うちの子も、小さいうちから訓練すれば、オリンピックに出られるかも?」って欲目が出ちゃいますよね。
でも、万人がそんなにしゃかりきになって何かのチャンピオンを目指すのも、どこか大それた、おかしな感じがするのは私だけでしょうか?
ふつうに暮らして、それなりに周囲の人へ気配りして、それなりに幸せを噛みしめて死んでいく…それでいいじゃないか、と最近思うんです。
もしオリンピックに出るほど毎日訓練に明け暮れていれば、他人のために何か気配りをしたり、恋をしたり、栄養学説に無縁な食事を楽しんだり…そういった人間としての諸々の「幸せ」を得る機会を逃してしまうかもしれません。
アイドルやらミュージシャンやらを目指して毎日歌や踊りの練習・オーディションに明け暮れていても、同じことが言えるでしょう。
…現役のオリンピック選手や人気アイドルからすれば、「そんな”普通の生活ができない”苦労なんて、プロを目指すなら当たり前」と鼻で笑われてしまうかもしれませんが、みんながみんな、それを目指す必要なんてどこにもない、とそう思うのです。
親戚の子どもが何かスポーツが得意だったりすると、おじさんおばさん連中が「将来はオリンピック選手かな?」だとか、冗談ながらもそんなことを口にする場面ってけっこうあると思うんです。
そんなとき、「誰もがオリンピック選手になる必要なんてない」「誰もが有名になる必要なんてない」「周囲に気配りができて、上司や同僚にかわいがられながら働ける大人になればそれで十分」「そういうちょっとした”欲目”が幸せを奪う可能性がある」という視点を持った大人があまりいないという状況は、ちょっと怖いですよね。
…まあ、子どもが自分でこんなことを言い出したら「食わせてもらってる身分でごたくを並べやがって、ボケ」と一括せねばなりませんが、大人は「大人」としてこういう意識を持ち合わせていないと、「幸せ」を履き違えてしまう可能性もあるんじゃないかな、履き違えている大人がけっこういるんじゃないかな、と私は思っています。
リリー氏のように、『これまでの経験から影響を受けている自分がいて、その様子と佇まいがオリジナルに見えてくればいいくらいのもん』なんて若者に言ってやれる素敵な「大人」でありたいものですよね!
