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↓『ヒンシュクの達人』ビートたけし著、小学館新書、2013)より引用(04)


最近、昔の自分を振り返って無性に恥ずかしくなるんだよな。
女にモテようとバンドをやってみたり、ジャズ喫茶で働いてみたり、洒落たレストランに通ってみたり、仕事で虚勢を張ってみたり……。
それは全部、自分ってものの限界が見えてなかったからなんだよね。


「オレはまだまだこんなもんじゃない」って期待するから、執着する。
それが「若さ」なんだよ。
「若い」ってことがいかに恥ずかしいことだったか、それがわかるのが大人の男なんじゃねェかって思うね。


自分の限界がわかって、「できること」と「できないこと」が判断できるようになると、自然と胆が据わる。
「人はいずれ死ぬ」という当たり前のことを受け入れられるようになって、少々のことでは動じなくなる。
この歳になって、ようやくそんな気がしてるんだよな。


↑(引用ここまで)
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今回は、「若い」だとか「女性である」ということの価値について一言物申したいと思います。


「若い人の感性を」「女性の声を」だとか言って、高校生や女性だけを集めて新商品の企画を作らせたりする会社やら自治体やらも流行っているようですが、最終的にはその企画を大人の上司(それがまた、男性だったりする)が判断していたりするのを見ると(笑)、そこにいかほどの意味があるのか、と疑問に思うところもあります。


「若い」とか「女性である」ということは、そんなに価値があることなのだろうか、と。


確かに、同年代・同性・同じような経験をもったおっさんばかりが出席する会議では、斬新な意見や、発言力のある人にたてつくような意見は、出にくい傾向がある…とそう言われれば、そんな気もします。


女性だったり、若い世代だったり、「異質」な存在を「未熟」「仕事を一番に考えない人種」と決めつけずに組織の中に入れておくのは、組織が硬直化しないために必要なことでしょう。


挨拶ができなかったり、ミスが多かったり、残された人のことを全く考えず定時にきっちり退勤するような、コミュニケーション下手な若者や女性(そりゃ、おっさんでもそういう人はごまんといるでしょうが)をただ下に見るのではなく、ものの見方や意見は、それはそれとしてきちんと聞く耳を持つ、というのもおっさんたちに備わっているべき姿勢だと思います。
…挨拶もろくにできないような奴の話に耳を傾けるのは、なかなか難しいことだとは思いますが(笑)。


しかし、私が「組織に”異質”な人たちがいて、一目置きあうよう努めることが必要だ」と思うことと、昨今の「若者」「女性」偏重の流行はちょっと違うように思うのです。
たけし氏に至っては『若いってことがいかに恥ずかしいことだったか』とまで言い切ります(笑)。


おっさんどもより能力も高く、コミュニケーション上手な「若者」や「女性」がいるのも、わかります。
しかし一方で、おっさんから見れば礼儀作法もなっていない、自分からコミュニケーションをとって住みやすい職場環境を作ろうともしない、いわゆる「使えない若者」や「使えない女性」が大勢いるのも、経験から知っています。


そんな彼ら・彼女らをどう扱うか、どう接するか。
昨今の流行のように「若者」「女性」という「異質」を過度に持ち上げるのも、「最近の○○はなっとらん」と切り捨てるのも、そのどちらもバランス感覚に欠けるように思い、今回こう書きました。


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