「あけましておめでとうございます」。
「誕生日おめでとう」。
「メリークリスマス」。


そんな定番の挨拶を耳にするたび(そりゃ私だって必要最低限の挨拶はするのですが)、「一体何が”おめでたい”んだ?」「そこにおまえの”慶(よろこ)び”に対する哲学はあるのか?」と、それを言う人たちのことをじっと見てしまいます。


出た出た、またお得意の”ひねくれ者”が、と言わないでください(笑)。
「何の考えもなしに、形式的なそれを口にしていないか?」という自己批判でもあるのです。


豊作を祈りながら暮していた時代ならまだしも、現代日本に暮らす我々が新年の挨拶をする意味って何でしょうか?
「また1年、無事に生き長らえることができた”慶び”と”感謝”」を確認するための儀式。それなら理解できます。
人間は、儀式化や習慣化しておかないと、口では「感謝している」と言っていても、すぐに忘れてしまうものですからね。儀式化された「節目」は必要なのかもしれません。


でも、そうは言っても、「○年○月○日○時○分○秒」なんて、所詮はどこかの誰かが決めた基準に過ぎません。
我々が「時間」を数値化して、共有して、管理しやすいようにしているだけです。確かに便利ではありますが、「絶対的」なものではありません。
極端な話、「俺は一秒の単位をこれくらいに決めて、一日25時間で、一年を350日と考えて、独自の暦で暮らしていく。他人の作った”時間”なんかに左右されないぞ」と決めて暮したって、別にかまわないのです。


先日、渡哲也氏があるテレビ番組で、「私は誕生日もクリスマスも結婚記念日も一切祝ったことがない。自分の誕生日を言うこともないから、プレゼントをもらったりすることもない」と言っていました。


私の周りでは「クリスマスはどうするの?」「初詣はどこに行くの?」と、「哲学」不在、(少なくとも私から見ると)節操のない人たちが多い中、久しぶりに「自分独自の基準で暮らす」人を見た気がしました。


私は、「クリスマス」も「新年」も特に何もしません。
「誕生日」は、友人たちと会うきっかけに使わせてもらうだけ。もちろん腹を傷めて産んでくれたそいつの母親にはとびきりの感謝を。


そんな奴がいても、いいじゃないですか。というか、なんでみなさんそこに「独自性」を出さないんですかね?
どいつもこいつも「クリスマス」に「カウントダウン」に「初詣」。おもしろみのない人たちです。


私宛に「年賀状」や「年賀メール」が一通も来ないことに、ひそかに喜びを噛みしめる今日この頃です。


ペタしてね