なぜ、年が明けることが「おめでたい」のか。
それは、「また1年、無事に生き長らえることができた」という、自分を取り巻く周囲・すべてのものへの「感謝」「歓喜」に他ならない、と私は解釈しています。
しかし、明日食う米も約束されていなかった時代ならまだしも、今の日本でそれを実感して、「自分が生かされている存在であること」を改めて感謝して新しい1年を迎える人間が、どれだけいるでしょうか。
「誕生日」もまた然りです。
「この1年、無事に生き長らえることができた」ことへの祝福、腹を傷めて産んでくれた母や育ててくれた大人たちへの感謝がそのはじまりであろう「誕生日」に、そのことをしみじみ実感して、また言葉に表して過ごす人間が、いったいどれだけいるでしょうか。
「クリスマス」だって、「イエス・キリストの生誕祭」なのですから、チキンやケーキをむさぼり喰う前に、心おだやかに手を合わせ、万物に感謝する儀礼であって然るべきです。
…こんなことを偉そうに指摘している私だって、「照れ」やら「慣れ」やら、そんな子どもじみた理由で、身近な人に「ありがとう」「お願いします」と言いはぐってしまうことがしょっちゅうあります。
つい最近も、「自分が○○するのに、一緒に付き合ってもらって当たり前」みたいな態度を身近な人にとってしまっていた自分を、反省したばかりです。
…これだけ「親しき仲にも礼儀あり」と理論武装している私でも、簡単に踏み外してしまう。
「基本、人間はてめえひとりで生きて、死んでいく。だから、周りの人のフォローは本来あり得ない”有り難い”もの」という発想を忘れてしまう。…情けない話です。
毎週これだけ強くものを言っている私ですから、それだけ「おまえの普段の言動はどうやねん?」「口先だけなら、なんとでも言えるわ」という自己批判は日々欠かさないように努めて暮らしているつもりなのですが、理論よりも実践、私の「見え」「生き様」で周囲を納得させられるような、「いつも明るい、気遣いを欠かさないみっちゃん」を演じ続けて死んでいかなあかんよなぁ、と改めて意識しはじめた今日この頃です。
一事が万事。
たった一回の「甘え」「油断」をたまたま見せてしまったら、それがそいつの「見え」「生き様」として人には捉えられてしまうのですから。
自分に鞭打つ、そんな自分でありたいと思う私を、今年もどうぞよろしくお願いします。
