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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(05)
マスコミもそうだ。
南太平洋の小島が沈むとか、一年の四分の一が真夏日になるとか、さんざん不安を煽っておきながら、相変わらず不況がどうのこうのと言っているのもおかしい。
不況が続けば二酸化炭素の排出量は減るはずだが、それとこれとは話が別らしい。
要するに、たいしたことないのだ。
誰も地球の未来のことなんて真剣に考えてはいない。
省エネもリサイクル運動も免罪符みたいなものだろう。
地球温暖化が本当かどうか俺は知らないけれど、どっちにしろ行くところまで行かなきゃ何も変わらないに決まっている。
生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められて、ようやく考えるようになるのだろう。
俺はそこまで生きてはいないから、後は野となれ山となれだ。
地球がぐちゃぐちゃになって、何億人がのたれ死にしようと知ったことではない。
どうせ俺もその頃には死んでいる。
まさかあの世が死人であふれて、俺の居場所がなくなるなんてことはないだろう。
俺がこの問題で気になるのは、そんな未来の話ではない。現在の話だ。
大量生産の大量消費が当たり前になって、電化製品ばかりではなく、なんでもかんでも使い捨てにするようになった。
食い物から文化まで、今ではあらゆるものが薄っぺらな三流品だ。
良貨は悪貨に駆逐され、本当にいいものがこの世からどんどん消えていく。
そっちの方がよっぽど由々しい問題だ。
↑(引用ここまで)
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…『要するに、たいしたことないのだ』。
高度経済成長のときには「浪費することは、経済を活性化するから、善」ということがその時代の「正解」だったように、現代における「正解」はどうやら、「資源やエネルギーの無駄を無くして暮らすこと」のようです。
モノが足りなくなる時代には「節約が美徳」となるのが常というのは理解できますが、今回ばかりは、その論理がお粗末すぎると感じているのは私だけでしょうか?
たけし氏も指摘するように、地球温暖化防止に真剣に取り組むのなら、「クルマの販売や購入は控えよう!」とか、「企業は新商品の乱発は多くの無駄が出るから控えよう!」とか、「消費者は中古品を修理して使おう!」とか声高に言い出してもいいようなものですが、そんな提案はまるで耳にしません。
つまり、『省エネもリサイクル運動も免罪符みたいなもの』程度の「正解」でしかなく、結局みんな「今より不便になること」を受け入れられないでいるだけなのです。
だから、私は「省エネ」だとか「エコ」だとかをこれ見よがしに言う奴らが、どこか信用できないのです。
「おまえら、そんなに騒ぎ立てるなら、山奥で自給自足の生活でもせえよ」と。
そんな切迫感のない「騒ぎ立て」が毎日ニュースやネットに流され、そのたびに群衆が右往左往する日常がこうも続いては、「文化的なもの」や「誇りある暮らしぶり」が駆逐されていってしまう危機感を、私は日々感じるのです。
