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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(03)


医療が発達して、今の人はなかなか死ななくなった。
なかなか死ななくても結局は必ず死ぬのだけれど、人は死ぬという事実に蓋をして、社会の表面から見えなくしてしまっているのが現代社会だ。
まるで人は死なないとでも信じているかのようだ。
おかげで、死というものがいつの間にか、不自然で忌まわしい絶対悪のようなものになってしまった。


挙げ句の果てに、人の命は地球より重いなんて意味不明の綺麗事を言って、子供に命の大切さを教えたつもりになっている。
だから子供は混乱する。
生と死は、切り離せるものではない。
死について教えないから、命の価値がわからなくなるのだ。


ある学校で給食のときに先生が、学校に乳牛と仔牛を連れてきて、子供たちに乳を搾るところを見せたそうだ。
牛乳はどうやって作られるかを教えるためだ。
牛も人間と同じで、仔が生れなければ乳は出ない。だから牛乳を取るために仔牛が必要なのだ。
仔牛が雌なら乳牛に育てるけれど、雄は殺して肉を取る。
学校に連れてこられた仔牛は雄だったから、いずれ殺される運命にある。
先生はそういうことまで、子供たちに教えたという。


残酷だとか、子供が牛乳を飲めなくなったらどうするのかとか、馬鹿な親は怒るかもしれない。
けれど、そういうことを教えない限り、命の大切さなんて今の子供には経験のしようがない。
他の生き物の命を奪って、人は生きている。
生きるというのは、そういうことだと理解するところから、人は生と死の意味を考え始めるのだと思う。


ハンバーガーだのフライドチキンだのを好き放題に食わせながら、命は大切なものだと教えても子供の心には響かない。
子供は大人の偽善を簡単に見抜くのだ。
現代社会が動物の命をまるでモノのように大量消費していることは、子供の方がよく知っている。
そのことに痛みを感じている大人がどれだけいることか。


↑(引用ここまで)
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…『人の命は地球より重いなんて意味不明の綺麗事を言って、子供に命の大切さを教えたつもりになっている』。


「いのちを大切にしよう!」
「生きているだけで、すばらしい」
「平和で、戦争のない世の中にしよう!」


そう叫ぶことの、なんと無意味・無配慮なことでしょうか?


そんな小学校のスローガンみたいなことを口にすることで、命を粗末に扱う無鉄砲なガキどもが、多少なりとも改心するとでも、本気で思っているのでしょうか?


たけし氏の言うように、食肉を手に入れるために、どんな作業工程で人間以外の生き物が殺されていくのかを教え込んだり、食事の度に殺された命を「いただきます」と手を合わせるよう教え込んだり、てめえが「生かされていること」「身の回りのすべてものに感謝して生きること」を丹念に躾けていくことの方が、よっぽど叫ばれて然るべきだと思うのは、私だけでしょうか?


具体性に欠けているんですよ。
てめえのアタマで考えないで発言する輩が多すぎるんです。
むしろ大人の方が、周囲に感謝して生きていないんです。


…そりゃ、ガキどもに教えられるわけがないですよね。
我々大人の方が、「自分は、生かされている」とありがたみながら毎日を生きていないんですから。


だからせめて、事あるごとに手を合わせる。「感謝を態度に表せる自分」をつくっていく。…「習慣」にしないと、すぐに忘れてしまいますからね、大人も、子どもも。


「死」や「命」と向かい合うべきだ、子どもに教えるべきだと言うのなら、間違いなくそのキーワードは、「具体性」と「感謝」と「習慣化」だと、私は確信しています。


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