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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(14)
「生命の大切さをどうお考えですか」
最近、ある講演会で、教育関係者とおぼしき女性からこんな質問を受けました。
言外に、「あの戸塚ヨットスクールの校長が講演をしている」ということへの批判が感じられました。
そこで私は、彼女にこんなふうに問い返しました。
「あなたの言う生命とは、何の生命のことですか。人間ですか。牛や豚、鳥、魚を含んでいるのですか。人間だとして、それはあなたの知り合いのことですか、日本人のことですか、世界中のすべての人類のことですか」
そんなことは考えてもいなかったのでしょう。
彼女はちょっと面食らった様子で、「すべての人類です」と言いました。
もしも本当に「すべての人類の生命の大切さ」について思いを馳せているのならば、大変です。
何せ地球上では毎日数多くの人命が失われているのですから、常に悲嘆にくれていなくてはいけません。
もしも地球上のすべての生命について本気で考え出したら、もはや何もできなくなります。
実際には、彼女は「生命の大切さ」について真剣に考えているのではなく、現場の人間を責めるためのキャッチフレーズとして、その言葉を持ち出したのでしょう。
子供に「生命の大切さ」を教えよ、と口先で繰り返す教育関係者やマスコミと共通するものを感じました。
空虚な言葉遊びです。
↑(引用ここまで)
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「命の大切さ」「命の大切さ」とみなさんおっしゃいますが、「命」のどこが大切なのでしょうか?
牛や豚、鶏、魚などの多くの生命を人間の手で絶ち、殺している場面を想像して「食」と向き合っている人が、一体どれだけいるでしょうか?
戸塚氏も言うように、日々失われている何万という命に、四六時中思いを馳せている人が、一体どれだけいるでしょうか?
日々罪のない人々が殺されている、各地の紛争の歴史的・宗教的背景を学び、少しでも力になりたい、と実行に移して生活している人が、一体どれだけいるでしょうか?
つまり、「命」なんて、現代社会において、ちっとも「大切」にされていないのです。
私たちも、大なり小なり、そこから目を逸らして日々暮らしているのです。
「大切にされていないからこそ、命の大切さを訴えよう」? …大きなお世話です(笑)。
むしろ、日々「命」を粗末に扱っている一員である自覚もない輩が、厚顔無恥に「命の大切さ」「命の大切さ」などとお題目のように連呼しているその姿が、その虚しさを露呈しているようにすら見えます。
「人命を尊重する」なんていうのは、人間社会が成り立つための約束事、「初歩の社会契約」のひとつにすぎないのですから、そんなものに理由なんてありません。
「誰が誰を殺しても構わない」という状況では、安定した社会生活が営めない、だから殺人を禁止しましょう、それだけです。
そこに「善悪」の価値基準を挟み込んで、論理を補強しようなんて色気を出すから、言うこと言うことが「小学校のスローガン」みたいなものばかりになるのです。
「私は、障がいのあるこの子を、周囲の反対を押し切って産みました。生まれてくる命を奪う権利なんて、誰にもないのよ」みたいな、「これを言えば、ぐうの音も出ないでしょ?」的な物言いに、どこか押しつけがましさというか、「人命尊重こそが絶対的正義」という思い込みに、どこか脱力感を覚えるのは、そこに無自覚だからだと思うのです。
そんな偉そうなこと言っているおまえも、ニワトリ一羽一羽の命を気に掛けもせずフライドチキンをむさぼり喰ってるやろ、って(笑)。
別に「命なんて大切じゃない。みんな殺し合えばいいんだ」なんて、言いたいわけじゃないんですよ。
「命が粗末に扱われていること」「私たちも、日々それに加担しているという事実」を棚に上げて、「命を大切にしよう」なんて臆面もなく言えちゃう輩に、苦言を呈したいのです。
そんなお題目を唱えなくたって、日々食べ物に手を合わせ、「自分たちが命を粗末に扱っている」ことに対する「自責」と「感謝」の念を忘れず、日々失われている人命に対して勉強も怠らない、自分なりの意見を持っている人はちゃんといるはずです。
そしてそういう人たちは、軽々しく「命の大切さ」などと口にしないでしょう。
「現代社会において、命はけっこう粗末に扱われているし、多かれ少なかれ、私もあなたもそれに加担してまっせ?」と自問しているかどうかを見れば、その人が真に「命を大切に」している人かどうかが、わかるように思うのです。
