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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(10)


海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子供は一命を取りとめた。
この場合、男は強者の論理で子供を助けたのです。
体力があり、技術があったから助けることができた。
力があったから、強かったから正義が実行できたのです。


ところが、弱者はこうはいきません。
「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、全て人のせいにします。
こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。
弱者の理論は現場では役に立たないのです。
溺れている子供一人救うことはできません。
このように役に立たないものを正義とは呼びません。


「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。
強い者は力に余裕があります。
だから、それを自分のために使っても、なお余力を他の人のために使うことができるのです。


↑(引用ここまで)
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「力こそ正義」とニーチェも言っていましたが、「弱者は守られるべきだ」「いじめはよくない」みたいなことを、みなさん言いすぎなんですよ。
ニーチェに言わせれば、まさに「ルサンチマン(弱者の妬み)」です。
それは、「自分たちは弱者だから守られて当然、強者がなんとかしろ」という、他人任せの精神性です。


有事に我先にと渦中に飛び込めず、いざとなったら足がすくんでしまうような「力のない者」「弱者」が、「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」みたいなことを、机の上でぶつぶつとのたまわっている。
「おまえ、そんな偉そうなこと言ってるけど、いざ強面の男に絡まれたら、何も言えへんやろ」と言ってやりたくなる輩です。


しかし、一歩間違えれば、私もそんな「口先男」になっていやしないか、と不安にもなります。
最近は、育児にかまけてトレーニングにも通えてないですし(笑)。
私のこんな物書きも、「体を鍛えていないヤツの言い訳(by有吉弘行氏)」にならないよう、「有事に率先して力を発揮できる」ことを意識した、理論と実践のバランスのとれたものでありたいと、改めて思わされました。


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