------------
↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(06)
子供は外に出て刺激を受けて、時には何かに怯えたとしても、家に戻って守ってもらえれば、また外に出ていきます。
この繰り返しで強くなるのです。
家庭が完全に保護してくれることが自分で確認できれば、子供は怯えを乗り越えて順調に育って行くのです。
ちなみに本書で「親」という場合には、両親が揃っていることを前提として議論を進めていきますが、これは便宜上の問題です。
子供を保護するのは親でなくてもかまいません。
子供は孤児だろうと片親だろうと、きちんとした「保護者」がいれば、きちんと育ちます。
親は特別の存在のように自分を見ていますが、子供からすれば単なる保護者です。
自分が成長するまでメシを食わせてくれて、保護してくれる存在にすぎません。
冷たい言い方ですが、これが現実です。
↑(引用ここまで)
------------
『親は特別の存在のように自分を見ていますが、子供からすれば単なる保護者』。
これが真実だと思います。
とかく日本は、「自分の子だから、大切に育てる」だの「血のつながり」だのを盲信しすぎなんですよ。
それは裏を返せば「自分の子でないなら、育てない」「血のつながりがなければ、愛せない」と言っているようなものです。
「愛」だの「血」だの、温かい物言いのように見えて実は、他を切り捨てる、とても冷たい考え方です。
だったら、祖父母に育てられた子は? 孤児として育てられた子は? 子宝に恵まれず、養子として育てられた子は、ちゃんと育てられていないのか? と言いたいのです。
戸塚氏も言うように、孤児だろうが、片親だろうが、養子縁組だろうが、誰かしら大人が「保護」してやりつつ、適切な「負荷」を与えてやれば、ちゃんと子どもは育つのです。
それどころか、まだ日本で3世代以上の「大家族」が一般的だった頃は、手のあいた祖父母が中心となって孫の世話をしていたはずです。それでも、子どもはちゃんと育っていたのです。
というかむしろ、その頃の方が、両親だけでなく、いろんな大人の影響を受けられて、今よりバランスのいい子どもが育っていた、と言ってもいいのではないのでしょうか。両親、祖父母だけでなく、近所のオヤジにも叱られ、隣りに住むおばちゃんに何か頼まれ…といったように。
「子どもは親個人の所有物ではなく、社会のもの。社会が育てるもの」という、「育児」というものに「社会的役割」という側面があることを、大人たちがきちんと認識していたように思います。…私はその時代に育っていないので、想像の話だけで申し訳ないのですが(笑)。
それが、昨今の若い親たちはどうでしょう。
子どもに、「世露死苦」みたいな(笑)、当て字だらけのいわゆるDQNネームを平気でつけたり、親の趣味で着せたい服をたくさん買い与えたりたり。
まるで、テレビゲームの「育成シミュレーション」をプレイしているかのような様相です。
育児の「社会的役割」側面を忘れ、「親なんだから、自分の子どもをどうしようが勝手でしょ」と言わんばかりの傍若無人ぶりです。
…こんなに自分を頼ってくるわが子が、別の大人に育てられたら、普通にそちらを頼るようになる、なんて考えたら、ちょっと寂しい気もします。
「誰が育てても、子どもは育つ」なんて言われたら、毎日の育児の苦労が報われない気もします。
でも、それが事実なのです。
事実は、事実として受け止めましょうよ。私たちは「大人」なんですから。
「報われる」ために「育児」をしてるわけではないのですから。
子どもが、成人するくらいまでに、挨拶ができて、周囲にかわいがってもらえる若者になれば、誰が育てたって、それでいいのですから。
日中は、保育園の先生に躾けてもらえばいい。トイレトレーニングをしてもらえばいい。
熱が出て保育園に預けられない日は、祖父母や友人を頼って、育ててもらえばいい。
子どもは自分ひとりで育てられるものでもないし、自分ひとりの視点ではバランスよく育たないかもしれない。
「育児」は確かに大変かつ大事な作業ですが、子どもになんぞあまり執着しすぎず、自分の「生き方」トータルも、もっと重要視していい。
誤解を恐れず言えば、「子ども」なんて、自分が幸せな人生を過ごすための必須条件ではないのですから。
子どもにばかり意識が行き過ぎないように、「片手間」くらいの意識でちょうどいいのかもしれません。
「おまえばかりいつも注目されていると思うなよ」というメッセージは、子どもにとっても結構大事ですもんね。
育児の「社会的役割」という側面を理解しつつ、「こいつは自分でなくてはダメだ」などと調子に乗らない、バランスのとれた大人でありたいものです。
