------------
↓『下世話の作法』(ビートたけし著、祥伝社、2009)より引用(06)
商店街と違うのは、今のスーパーでもコンビニでも、店のほうはものさえ売れればいい、客のほうは安いものが買えればいいんだってことで、人間関係がつくる文化をはずしちゃってることだ。
立ち食いそば屋に並ぶのと何も変わっていない。
スーパーのレジに並んでる姿は、立ち食いそば屋で待ってるサラリーマンの行列と同じじゃないか。
昔の日本だったら、いくら貧乏でも「あそこの店は安いから」って並ぶような真似はしなかった。
そんなことまでして買いたくない、貧乏だけどそこまでして食いたくないという誇りを持っていたはずなんだ。
本当はやせがまんなんだけど、今はやせがまんがなくなって、開き直るようになってしまった。
「貧乏だけど恥ずかしいことはしない」じゃなくなって「貧乏だもん、しょうがないじゃないか」というね。
要するに格差をそのまま認めてしまっている。
昔の人は自分が貧乏なことを認めるし、格差も認めるけど、精神は貧乏じゃなかった。貧乏人にも誇りがあった。
経済的に恵まれない状況でも、精神まではその状況にどっぷりつからない。どこかで踏みとどまることができていた気がする。
今の人は踏みとどまらないからね。
子どもが親や先生に反発するのと同じで、勉強ができない子どもが「お前はばかか」って言われると「僕、ばかだもん」と平気で答えちゃう。
親が「どうして勉強やらないの」と言うと、子どもは「『どうして』って、どうして?」なんて、わけの分かんない答えをするけど、いつの間にか大人も子どもみたいな開き直りをするようになった。
今のやつらの開き直りは単なる詭弁でね、精神的な誇りは一切ない。そんな時代になってしまったんだ。
そうさせたのは国とか大資本の計算で、精神的な誇りをなくそうとした結果だよ。
大量販売の宣伝って、安さをすごく強調するじゃない。「安いよ、持ってけ泥棒」とさんざん宣伝して客に商品を持っていかせる。
「持ってけ泥棒」なんだから、客は泥棒したのと同じでさ。テレビショッピングで「驚きのお値段です。こんなことがあっていいんでようか」って宣伝するけど、みんな疑いもしないで買っている。その宣伝費はどうなっているんだって。
要するに国を挙げて情けない人間をつくった。
経済的によくしていったぶん、日本人から誇りを奪った。
だから格差は国がつくったんだけど、日本人はそのまま受け入れてしまっている。
↑(引用ここまで)
------------
「誇り」と「恥知らず」。
「やせがまん」と「開き直り」。
…特に「○○だもん、しょうがないじゃないか」といった精神的な開き直り・誇りのなさは、現代日本人に多く見受けられる特徴だと私は思っています。
たけし氏の「昔の人」「今の人」という表現は、「昔はよかった」というノスタルジックな感傷に浸って話が終わってしまうフシがあるので私はあまり好きではないのですが、税金が上がればその原因も考えずに「政治は何をやっているんだ」とただ文句を言い、「安いから」と言って「ドンキホーテ」や「すき家」の行列に並ぶ群衆の姿を思えば、たけし氏同様「おまえらの”誇り”はどこへ行った?」と言いたくも、なります。
「おまえが投票した民主党(自民党)のしたことやろ? ”自分には責任ない”みたいな顔すんなよ」「そこまでして安く買いたい(食いたい)か? 並んでる自分の姿がどう”見え”ているか、いっぺん想像してみろや」と。
先日、タバコを吸うT君に、いつだかのタバコの値上げについて何も言わないので聞いてみたら、「タバコが400いくらになったくらいでギャーギャー騒ぐ奴らに、タバコを吸う資格なんてない」と、さらっと言ってのけました。
そりゃ誰だって1円でも安ければそれに越したことはないとは思うのですが、やせがまんにせよ何にせよ、そう言ってのけるT君の姿には、自分の言動に対する「誇り」を感じました。
「家計」や日々の小さな「損得」よりも、「時間」「自分の”見え”」「誇り」を大切にする。
毎日の生活に追われて、そんな姿勢、忘れていませんか?
