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↓『ニーチェ入門』(西研・森一郎ほか著、河出書房新社、2010)より引用(03)


しかし私は、個々のテクストに接して、様々な問いを立てて論じるニーチェに触れるたびにしみじみそう思うんです。
自分の考えを追っていたと思ったら、それをひっくり返すようなことを平気でやる。
キリスト教批判を華々しく行ったかと思うと、キリスト教の重要性を鋭く指摘する。
禁欲主義批判をぶったかと思えば、禁欲の意味について滔々と述べる。
そういう矛盾することばかりやっていては、自分の落ち着く場所がなくて大変だと思うんですが、ニーチェはいかにも愉しそうにやっています。
同じことがらを語るにも、いろんな相拮抗する見方が自分の中にあることを、しんどいと思うよりはむしろ喜んでいる。


これは、単に支離滅裂なのではなく、合理性や根拠を追及していくなかで、相対立するもの、真逆のものを自分の内に引き込んで、その中で戦わせているんですね。
ニーチェにとって出自でもあるようなキリスト教を情け容赦なく批判するということは、自分の身を切り裂くようなきつい自己批判という面を持っていたはずです。
それでいいのだ、それじゃなくちゃと、好き好んで自分を「無」にしようとしている。
これはこれで「無を欲する」仕方なのかもしれませんが、ともかく、そういう気前のよいスタイルが、自由人らしくて、私にはとても哲学者らしいと思えるんです。


↑(引用ここまで)
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…『いろんな相拮抗する見方が自分の中にあることを、しんどいと思うよりはむしろ喜んでいる』。


ニーチェの「キリスト教」批判。
現代に生きる私たちが「あたりまえ」だと思い込んでいる「強い者が弱い者から搾取することは、悪いことだ」「自分のことだけを考えて生きるのではなく、他人のために行動することは、正しいことだ」という思考ルーチンは、その人の信仰・無信仰に関係なく、「隣人を愛せよ」というキリスト教を背景にしている考え方です。
しかし、それはややもすると「腕力の強い者、学力の高い者、財力のある者には悪い奴が多く、腕力の弱い者、学力の低い者、貧乏な者にはいい奴が多い」などという逆転の発想につながってしまう可能性を孕んでいる、とも言えます。
現に映画やテレビドラマなんかは、そんな設定のものばかりですよね。
本来、「力のある者」が自分の利益のために行動することだって、弱者に同情などせず我が道を極めることだって、生き様として素晴らしいはずです。そのように「すごいものは、すごい」と素直に認めることのできない精神の「不健康さ」を、「ルサンチマン(妬み)」とニーチェは批判したのです。


しかし一方で、ニーチェはイエス・キリストの精神を重んじてもいます。周りにどれだけ変人扱いされようと、疎外されようと、「真理」を追い求めようとするその姿勢を。
実際に「聖書」や「イエス伝」にあたってみると、「自分がそうせずにはいられないから、そうする」「その時代の常識や風潮に流されない」自由人としてのイエスの姿がそこにはあります。
ただ、彼の生き様が”天晴”であることと、その”天晴”を人に勧めてもよいか、ということは別問題だと私は思うのですが。。


一方では自分自身をも含む近代以降の「行動原理」の不健康さを暴き、またその一方でその「行動原理」の期限・根本姿勢を大切にする。
私が安易な「学歴批判」にも「学歴偏重」にも、そのどちらにも苦言を呈するように、また、「女性や若者たちが陥りがちな傾向」にも「女性や若者たちがこうならざるを得ないシステム」にも、そのどちらにも言及するように、『いろんな相拮抗する見方が自分の中にあること』「考えることをやめ、安易な結論に走らないこと」の重要性は、これまで何度もお話ししてきたと思います。


「学歴なんてどうでもいい」「お金よりも大切なものがある」「女性も若者も、どんな生き方だって自由だ」と結論づけてしまうのは簡単です。悩まなくて済みます。
しかし、「本当にそう言えるのか?」「自分の立場だけでものを言っていないか?」と、つらくてもしんどくても「考えることをやめない」姿勢を忘れてはいませんか?


「決めつけ」や「断言」への躊躇は、『いろんな相拮抗する見方が自分の中にあること』を意識させてくれると、私は考えています。
逆にその躊躇の形跡が見られない人やその発言には、どうにも疑いの目を向けてしまうのです。


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