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↓『ニーチェ入門』(西研・森一郎ほか著、河出書房新社、2010)より引用(01)


私は1990年代前半に大学教師になり今に至っているわけですが、この間は、大学改革という名のもと、じつにいろいろな意味で大学が変質していった時代でした。
その大きな変化の根底には、大学に身を置いている人間自身が、自信や誇りを持てなくなっていることがあると思うんですね。
学問がそれ自体のために為されるのではなく、世のため人のため社会のため生活のため、と、とにかく何か他のことのためにあるようになってきたからです。


こういう議論は昔からあるわけですけれども、徐々に問題は大きくなり、学者たちが自分のやっている学問に対して自信が持てず、他のことで意義づけしてもらわないと気が休まらない。
一種、ぽっかりと大学の中に空いた穴、虚無があり、それを埋め合わせるために、みんなして必死に努力して取り繕っている。
これをニーチェの有名な言葉で表すと、「ニヒリズム」になります。


(中略)


私は今の時代に生きる人間なので、今のことしか分からないですけれども、ここ二十年の大学改革は、学生や教職員の自由な時間をなくし、ただ真面目さだけを競っている。
私はいつも言うのですが、自由人・ひま人、つまり「スコレーの人」でなければ、そもそも「学者(scholar)」とは呼べない。それなのに、呑気にものを考えるゆとりがどんどん奪われ、業績作りや受験生集め、果てはお役所向けの無意味な文書作成に追われている。
勤勉な精神と法令遵守主義が大学の中で幅をきかせ、そうではないものは主張しにくくなり、大学人に確固たるものがなくなっている。その深いところに知のニヒリズムの問題がひそんでいるのではないかと思うんです。


大学だってもちろん社会あるいは国家の中にある制度だということは自覚しなければなりませんが、だからといってすべて同じ理論で貫徹しなければならないということにはなりません。
やはり大学には大学なりの自立した論理や気風があってしかるべきでしょう。


私の問題意識は、だいたいこういったところにあります。
このニヒリズム的状況の中で、知を、学問を、ものを考えるということを、いかにして肯定するか。どうせとかしょせんとか呟いて諦めてしまわずに、どのようにして自分自身のあり方を肯定できるか。
こういうのを人は哲学的な問題関心とは呼ばないかもしれませんが、少なくとも私にとっては、それが非常に重要な関心事だったのです。そのときに出会ったのが、まさに哲学者ニーチェでした。


↑(引用ここまで)
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この文章は、私が大学時代に大変お世話になっていた東京女子大学哲学科の森一郎先生による執筆です。
「哲学者」らしからぬ(?)気取らない語り口と、「スコレー(暇)」、「呑気にものを考えること」を愛してやまないその姿勢に惚れ込み、大学院進学後も、私はちょくちょく先生のゼミに通わせていただいていました。


現代人は「人はパンのためにのみ、生きているのではない」と言いながらも、日々の「生活」や「労働」にあくせく追われることで手一杯、そのうえ「休日」もじっとしていられず、”忙しそうに”レジャーや他人の作った「娯楽」「エンターテインメント」に勤しむ。
その姿はまるで、「暇」や「孤独」から一生懸命に逃げようとしているようにも見えます。


古代ギリシアでは「日々の生活や仕事が忙しい」「衣食住にあくせくすること」なんていうのは「奴隷的」だと蔑まれ、「非人間的」とさえ言われていたそうです。
「暇」「ゆとり」「呑気にものを考えること」「ひま人」こそが、一切の「動物的な」日常生活から解放され、学問や芸術などの「人間的な」営みに没頭できる「自由人」だとして評価されていたのです。
「メシの種」や「仕事」、「レジャー」のことばかりで頭がいっぱいなのは「動物」「奴隷」「非人間」であると。
「人間」であるおまえの価値は、いったいどこにあるのか、と。


…私は、高校出たての18歳のとき、こんな現代人への根源的な問いを淡々と語る森先生やニーチェのテキストに出会い、魅了され、「哲学」「ものをじっくり考えること」の価値について考えはじめたのです。この【哲学】という私の文章のタイトルも、そこから着想しました。


…あなたも、日々の「生活」に、「労働」に、「レジャー」にと、日々「動物的に」生きていませんか?
あなたの「人間的な」価値は、どこにありますか?


少なくとも、こういった意味での「呑気にものを考えること」「ひま人」を「人間的である」と評価できる視点を持っていることこそが、人間が人間として生きる第一歩、人間的な「豊かさ」の第一歩だと私は考えています。

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