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↓『いつも心に紳助を』島田紳助著、小池書院、1996)より引用(08)
バイクの競争はね、ぼくの場合、勝負してないから。賭けとは違うね。意地になってやってるわけやから。
勝てるわけないねんね、うちが。表彰台の三番までに入ったら意味あるけど、別に六番でも、五十番でも一緒や、という考え方。
もっと違うことを期待して、鈴鹿に行くんです。今年は何があるかなって。
普段生活してるのと確実に違う。
アポロで月に行った人が、みんな宗教家になったでしょ、「神がいた」と。あれに近いものがあるんです。
こんなこと偶然起こらへん! ってことが、毎年起こるんです。
その時にね、鈴鹿には神さんがいる。一生懸命やった人間にだけ、感動さしてくれるなって。
百賭けてるやつには百の感動が、十賭けてるやつには十の感動があるんです。
去年一昨年と、二年続けて残り十二分くらいで転倒したんです。
なんか八時間も走って、あと十分くらい行きそうなもんやけど、偶然とは思わへんかったです。
去年なんか、
「プライベート・チームでトップ走るねん。で、残り五分か十分で転倒。これがベストや」
って言うたら、その通りになってね。みんなに「わざと違うか」って言われてんけど。
でもみんな、ぼくが言うてること、冗談やないって、どっかで思ってるんです。それがベストや、と。
こけなかったら、プライベートで一番になってたんです。そしたら来年、することなくなる。コケてよかった。結構、そんなんで泣けるんですよ。
コケた、ということだけじゃなくて、また違うことで感動するんです。
去年の転倒きつかったら、メガニックがもう、夢中でやるんです。罵声を飛ばしながら。
それを見てたらね。彼らのエネルギーと本気さに、途中で諦めようとはとても言えなかった。
残り数秒でコースに戻れたんです。それはもう、メカニックの、プロとしての誇りを見ましたよね。
そこにまた、ぼくら他の者は目頭熱くなってくるんですよ。
毎年、新しい感動が、鈴鹿にはあるんです。
競馬場や、パチンコ屋には、神さまはいません。
↑(引用ここまで)
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…『競馬場や、パチンコ屋には、神さまはいません』。
とっつきやすいもの、軽薄なものには感動はない(少ない)。
それは、その通りだと思います。
逆に言えば、「負荷」が大きいものには感動ある(多い)、ということです。
「学問」や「芸術」「体育」なんて、その最たるものですよね。
勉強嫌いの子どもが、嫌々ながらも宿題の調べ学習なんかをやっていたら、調べているうちに面白くなってきたり。
フルマラソンや富士登山に挑戦してみたら、普段の生活では得られない「感動」があったり。
学生の「部活動」なんかもそう。
即興的なテレビやゲームなんかでは味わえない、じわっとした「手ごたえ」というか「感動」が、「負荷」が大きかったぶんだけ得られるというのは想像に難くありませんよね。
…とはいえ、かくいう私だってテレビは見ますし、ゲームもやります。
ご多分にもれず、他人の作ったエンターテインメントに埋もれて生活しています。
でも、ふと思うのです。
私は何を求めて人生を送っているのかと。
今ここに、紳助氏の言う「神さま(感動)」はいるのかと。
私の父は、「結婚なんかしてもしなくてもいい。ただ、結婚したらしただけの”負荷”と”おもしろさ”がある」「育児なんかしてもしなくてもいい。ただ、育児でしか味わえない”負荷”と”おもしろさ”がある」とよく話してくれていました。
「結婚・育児をすべき(してほしい)」「孫の顔が見たい」なんて先入観を一切押し付けない父の度量に感服しながらも、私自身の人生の「負荷」と「感動」がいかほどのものだったか振り返らずにはいられませんでした。
そんな「負荷」との付き合い方が、その人の「生きざま」になると言っても過言ではないかもしれません。
