------------
↓『学校嫌い』(江川達也・山田玲司著、一迅社、2007)より引用(06)
江川:人間はみんな孤独なんだよ。孤独をまず受け入れて、ある種、孤独を楽しんで、孤独なんだってことを自覚するから、ちょっと孤独じゃなかったりすると、わかりあえたりする。「孤独じゃないと嬉しい」ってね。
そもそも、みんな仲間だっていう前提で漫画を描くからいけないんだよ。友達とか描き過ぎるからいけない。みんな孤独で一人で生きていかなきゃいけないけれど、そういう一人一人の道すがら、ちょっとでもわかりあえたら嬉しいねっていうのがいいと思う。
――でも普通の人は、孤独をなかなか受け入れられないじゃないですか。孤独が嫌だから、いじめだって出てくる。
江川:一番の問題は、贅沢のハードルが高すぎることだよ。欲を上げすぎているから、いろんなことが不満になる。漫画は上げることばっかりやるから。だから、みんな悩むことになる。教育者は本当は、欲のハードルを下げることをやらなきゃいけないんですよ。
↑(引用ここまで)
------------
…『贅沢のハードルが高すぎる』。
ひとくちに「エンターテインメント」と言うけれど、その多くは庶民の願望や妄想を、バーチャルにもしくは一時的に満たしてくれる「玩具」です。
江川氏が世に出回っている漫画に対して『友達とか描き過ぎるからいけない』と言うように、主人公にずっと想いを寄せる女の子といったキャラクターや、「正義」の名のもとに「悪者」に白昼堂々と暴力を振るうような場面は、漫画だけでなく、テレビドラマや映画、雑誌に至るまで、私たちの日常にあふれかえっています。
しかし、そういったどこかの誰かが作り出した「妄想」や「願望」を商品化した「玩具」は、私たちの「理想」や「贅沢」のハードルを上げてしまう、という危険性を認識している人たちがどれだけいるでしょうか?
「恋愛とはこのくらいドラマチックなものであるはずだ」
「何も言わなくても通じ合えるような親友・夫婦関係があるはずだ」
…というような「もっと○○なはずだ」「もっと○○だったらいいのに」というどこかの誰かが作った妄想に自分の願望やら不満やらを重ねていくことによって、どんどん自分の現実の生活と「意識」とのギャップは進み、現実をごまかし、見過ごすようになっていってしまうと思うのです。
これは、インターネットや趣味の世界にひきこもる、といったような部分的な話ではありません。
恋愛や結婚、友人関係、仕事などのリアルな日常に、「このくらいのレベルを保ってくれないとガマンできない」という(自分では気づかずとも)高いハードルを誰しも持ってしまっていやしないかという、「贅沢」と「意識」の話です。
本来私たち人間は、「ドラマチックな恋愛」などなくとも生きていけるし、暴力的な衝動も自分なりに消化して生きていけるはずです。「足ることを知」って生きられるはずです。
もっと「孤独」や「不安」とゆっくりじっくり対峙して生きてきたはずです。
「…こんなものなくたって生きていける」というスタンスで「エンターテインメント」や「他人の作った妄想や願望」と付き合っていかないと、不平や不満ばかり口にする人生を送ってしまうと、私は思うのです。
