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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(13)


もともと報道というジャンル自体が、「隣の家の夫婦ゲンカよりも、遠い国の戦争の方が大切なことだ」といった報道主義的価値観を強要してきます。
確かにこういった「世界や日本で起こっている政治や経済のことを知りたがり、いろいろ自分で考えたり批判したりするべきだ」という価値体系は、民主主義を支える基本の考え方になる大切なものです。が、大切であろうとなかろうと、洗脳行為であることに違いありません。それは、ワイドショー番組が「隣の家の夫婦ゲンカよりも、遠い東京の地下鉄サリン事件の方が大切なことだ」という価値基準を強要してくるのと全く同じことです。


ジャーナリズムとは、「報道主義」という意味です。もちろんそれは「主義」なのですから、「暗黙の前提」を内に含んでいます。それは「報道という行為は正しい」という前提です。


中立的な報道、報道の義務、報道陣のモラル、いろんなことがメディアでは語られます。しかし「なんでまた、報道なんて必要なの?」といった本質的な問いは、いつの間にか「みんなが望んでいることを報道する」という答えにはぐらかされます。


ジャーナリズムは、一見「事件」などの情報を流し、「意味を伝達」しているかに見えます。しかし実際は「こんな大変なことが起こった=この事件は、みんなにとって大事なことだと思え」という、意図の強制を行っているわけですね。その結果、私たちにとって新聞を読み、ニュースを見るのが常識になってしまいました。つまり、「ジャーナリズムの必要性」を洗脳されたのです。


↑(引用ここまで)
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情報の優先順位の刷り込み。
どの新聞でも、雑誌でも、テレビ番組でも、「これこそが今、誰もが注目すべき情報だ」という顔をしてやがります。
誰もがサッカーのワールドカップの日本代表に興味があって、どの女性もが「モテ髪」「ダイエット」に興味があるような顔をしてやがります。
…『メディアに取り上げられれば、それだけで価値がある』という刷り込みがあることを強く意識しないまでも、あからさまなプロパガンダを見て、そんなふうに思ったことありませんか?


流行の曲がよく流されていれば、なんだか”いい曲”のような気がしてしまいますし、あれだけバッシングを受けた普天間基地の移設問題も、民主党の代表が入れ替わっただけで、まるで音沙汰がなくなってしまっています(2010年6月現在)。


当然のことながら、報道する側はその内容を恣意的に選んでいます。どこかの誰かが選んだものです。
ならば、消費者の側も「情報を得る・得ない」「見る・見ない」というところから、恣意的に選んでもいいと思いませんか?
「みんなが注目している」「今、売れている」からといって、「自分にとっての優先順位」は人によって違うはずです。


「自分の中の価値判断・優先順位」を強く意識していないと、「個」は簡単に「大衆」に埋もれてしまう。
…そんな傾向が年々強くなってきている、と私は感じています。


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