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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(04)
産業革命と同時に宗教は死にました。
もちろん、死んだといってもその影響力が完全になくなったわけではありません。それどころか世界の大半では、いまだに最大の価値観の一つなのです。しかしあの、人々が無批判に宗教を信じていた時代はもう、永遠に返ってきません。
今の日本では、聖典の中身に、ある程度の整合性がなければ信者は増やせません。合理的な宗教! なんて「堕落」なんでしょう。キリスト自身が聞いたら激怒モノです。科学の前に宗教がひざまずいたのです。科学が、合理主義が、世界を席巻した瞬間、宗教は「その他大勢の価値観」の一つに甘んじるよりほかはなかったのです。
それと同じく科学も今、死を迎えています。どんなに科学者たちが正論を合理的に言い募っても、私たちにはもう、それが魅力的には聞こえません。
「ふーん、それ本当なの?」とまず、疑ってしまう。
科学が私たちを幸せにしてくれるとは信じていないからです。
↑(引用ここまで)
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…『宗教は死にました』。
そう、どんな考え方も、どんなにすばらしい思想でも、「宗教」でさえも、それらは世の中に数多ある価値観のうちのひとつになってしまったのです。
今回は、「宗教」について。
私は、「宗教」から「生きるための知恵」を多く学べるということには賛同できるのですが、「宗教」が生活の一部になっている人の「客観視点」をどうにも疑ってしまうのです。
「真摯に生きたい」「まじめに生きたい」と思えば思うほど、他の宗教から多くの視点を学んだり、独自の考え方を追求したりこそすれど、自分の宗教に無作為に他人を勧誘したり、他の宗教を否定したりするなんて、できるはずがないと思うからです。
「オマエのオリジナリティは、どこにあんねん?」と。
ですから逆に、私とは違う理由で「宗教」に否定的な人…例えば、「カルト」がらみで「信用できない」というイメージを持っているだけだったり、聖書も仏典も読んで勉強したことがないくせにただ拒否しているだけだったり、そういう安易な「無神論者」にも、私は疑いの目を向けます。
「偉そうに宗教語る前に、もっと勉強せえよ」と。
…私は小さい頃から、父にこう言われて育ちました。
「宗教は学ぶべき点も多くある。どの宗教も、まじめな信者にはいい人が多い。だが、オレに言わせれば、いまだに宗教なんかを信じている奴は、自分オリジナルの哲学を持てない、他人に依存した奴にすぎない。『自分教』をもつべきだ」と。
「宗教」が死に、「科学」が死に、もはや誰も「正解」を教えてくれない時代。
中世では「宗教」「神」が「正解」でした。現代と比べて優劣云々ではなく、そこには「生きるに足る満足・幸せ」がありました。
近代では「科学」「合理主義」が「正解」でした。これも現代と比べて優劣云々ではなく、そこには「生きるに足る満足・幸せ」がありました。
もはや「宗教」も、近代を生きた我々の父母・祖父母のありがた~いアドバイスも、心から「正解」とは思えない私たちが、今ここに生きています。
近代以降の影響を強く受けている世代であるはずの私の父(推定62歳)が早くから『自分教』の重要性を説いたことに(今更ながら)驚かされながらも、我々が進むべき道をあれこれ模索する今日この頃です。。
