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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(03)
今から二百年ほど前、ヨーロッパの片隅で産業革命が起きました。
それを機に、科学は急速に発達したのです。農業の発達によって、人々が飢えから救われたように、工業の発達は人々の暮らしを驚くほど豊かにしました。
暑さ寒さを防ぐ住居や衣服が量産され、家電製品が整って便利になっただけではありません。演劇、ファッション、グルメ、車、レジャーと、それまで貴族によって独占されていた特権、娯楽がすべて大衆のものとして解放されたのです。
この科学・技術が成し得た偉業は、どんなに言葉を尽くしても足りません。
医療制度が人々に何を与えてくれたかは、あえて説明するまでもないでしょう。
それまで貴族の館でしか聴けなかった室内管弦楽団。しかし科学の力は、音楽を大衆に解放しました。一部の貴族ではなく、大衆が音楽を聴くために造られた巨大な音楽ホール、その中では音楽自体も科学化、産業化されました。「指揮者」「弦楽器パート」「管楽器パート」と、最新の工場のように演奏者の役割は割り振られ、完全に完成された交響譜面の通りに正確に音楽は演奏されたのです。
路線は果てしなく延びて、旅行ブームが訪れます。かつての貴族のみがたのしめた「冒険」は失われ、スケジュール通りに進行できる「旅行」が、それに取って代わりました。
(中略)
また、科学の力は地理的な障害、身分の違いをも解消し始めました。
「演劇」は、都市の住人、つまり市民でなければ見られない娯楽でした。しかしそれを、科学は「映画」に改良しました。これによってどんな地方でも、映写機さえあれば都市の住人と同じ娯楽が見られるのです。興行関係者は、この「地方住民からの収益」の多さに驚き、あわてて「だれにでも分かりやすいストーリー」を制作者に要求しました。
逆に地方の観客は、映画にストーリー意外に都市の最新流行のショーケースとなることを要求しました。ここにおいて、映画は「流行の素材を使って普遍的なストーリーを語る」、という現在のハリウッドスタイルの原型を手に入れたのです。そしてこれに続くラジオ、新聞によって「都市に住める身分の人々」と「地方にしか住めない人々」との差は、急速に縮み始めたのです。
科学は人々に娯楽を与えただけではありません。
科学が、人々を「市民」にした。
科学が、人々の楽しみを普遍化、平等化することによって身分制度、封建制度を壊滅させた。
科学には「前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に開放する」という大義名分があったのです。
↑(引用ここまで)
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…『文化の市民への開放』。
貴族などの特権階級だけに許された音楽・旅行・演劇(映画)などの、多くの文化・エンターテインメントが、次々と一般市民、老人から年端もいかない子どもにまで許されるようになった、という事実にどこか「恐ろしさ」のようなものを感じてしまうのは、私だけでしょうか?
「誰でも金さえ払えば享受できる」ということは、イヤでも「自分も、その他大勢の中のひとり」と感じざるを得ません。
子どもでも、老人でも、どんなにマナーの悪い輩でも、均一化された文化や娯楽に触れ、楽しむことができるというのが、「大衆化」ということなのですから。
私が行列に並ぶことや人ごみをいちいち嫌うのは、そこに理由があるのかもしれません。
知らない人たち大勢でひしめき合って、ライブ会場に集まり、同じ音楽やショーを楽しむ。。
遊園地やテーマパークに行って行列に何時間も並んで、どこかの誰かが「誰でも楽しめるように」作った娯楽を消費する。。
…どれもこれも、イヤでも自分が「その他大勢の中のひとり」であることを自覚せざるを得ないのです。
「サブカルチャー」なんていう言葉が出回るようになって久しく、文化の細分化と選択可能性は増える一方です。
大衆化されていない文化などほとんど無くなってしまったこの世の中で、自らの「選択」こそが「自分が唯一無二の存在であること」を確認できる唯一の手段なのですから、その「選択」に「ポリシー」と「意思表示」がなければ、それは社会的に「死んでいる」と言っても過言ではないと、私は感じるのです。
年齢、性別、信条を問わない、大衆の「貴族」化(「王様」化と言ってもいいかな?w)は、さらに近年の「情報」の大衆化によって進行する一方です。
…我々人間が、「個」を保って生きることが相当難しい世の中であることは、間違いなさそうです。。
