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↓『江川達也のニッポンを鍛えろ!』(江川達也著、ぶんか社、2004)より引用(11)
公務員同様、学校という閉じた社会の中で教師たちが安穏としている今の状況では、国民を自立させることのできる教育など行えるわけがない。
何より、江川内閣においては、文部科学省が全ての省庁を牛耳り、教育が全ての問題を解決する軸となるのであるから、学校の教師にこそ弱肉強食の競争原理を導入することが必要である。
具体的には、生徒、校長、同僚、地域住民など、できるだけ多くの人間に多角的に学校・教師の評価を行わせる。つまり、社会にその学校の情報公開を行うのだ。
「この学校のこの先生がこういう授業をやっている」ということが誰にでもわかるようにするのである。
生徒や、校長など、一部の人間にだけ評価させると、教師が生徒に媚びた授業を行って点数稼ぎをしたり、校長が自分の気に入った教師をえこひいきするなどして、不公平な評価が出る危険がある。
しかし、さまざまな立場の人間が評価すれば、とんちんかんな教師に対してとんちんかんな評価をしている校長がいたとしても、逆にその校長自身がとんちんかんなんだな、とわかるようになる。
そして、学区などは全て取り払い、オープンにされた情報に基づき、学校、教師を自由に選べるようにする。
いい授業をやっているいい教師がいれば自然と生徒がたくさん集まり、ダメ教師には生徒が集まらない、という競争原理で淘汰を図っていくのである。
そうすれば、教師も自分はどういう教育をすべきか、もっと真剣に考えるようになり、教育の質が格段に向上するはずである。
また、このシステムが根づいてくれば教師一人一人がどういう授業を行うのか、自らアピールしていくことも求められるだろう。
社会においては表現能力、コミュニケーション能力はきわめて重要である。なのに、これまでの教師はそういう現実的な能力を何も身につけていなかった。
世の中全般と同じ競争原理の中でやっていくことによって、学校の教師も、より社会で役に立つ現実的な教育ができるようになるはずである。
↑(引用ここまで)
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…『教師一人一人がどういう授業を行うのか、自らアピールしていくことも求められるだろう』。
これはなにも教師に限ったことではなく、もはや誰もが、「自分はこういう者です」「私にはこういう能力があります」と自らアピールしていかなければ、「その他大勢」に埋もれていってしまう時代になっていると、私自身痛感しています。
「ひとりひとりに個性がある」「みんながそれぞれ主人公」なんてもっともらしい言葉を吐いたりする人もいますが、これだけ情報過多の世の中、「自分なんてちっぽけな存在」だと常日頃から思い知らされてしまう世の中で、そんな甘っちょろい台詞は気休め以上のものにはならないように思います。
問題なのは、「どうアピールするか」「どう『自分』を知ってもらうか」という具体的な表現能力が身についていることです。
恋愛や就職活動なんかは、わかりやすい例ですね。
自分のセールスポイントを、相手にわかりやすいように、かつ相手に好印象を持ってもらえるように、戦略的にアピールする。
その結果として、自分を必要としてもらう。信用してもらう。
そういった戦略的アピールを、仕事や友人関係も含め、日常生活全般においても意識してやっていかないと、「自分を必要としてもらっている」感が得られないというか、「『社会』とのかかわり」を実感できないまま日々を過ごしていってしまうように思えるのです。
…ちょっと微妙な話だとは思うのですが、今回のねらいは、「自分は人見知りなんです。アピール下手なんです」などと平気で言えてしまう「オトナ」たちへの提言と、そうならないための自分への戒めです。
「アピールしなければ、誰も見向きもしてくれないぞ」「たとえアピールしてても、結果としてリアクションを得られなければ、アピールしていないのと同じだぞ」と自分のケツをたたけない者に、人生における「成長」と「満足」は与えられないと、そう思うのです。
