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↓『江川達也のニッポンを鍛えろ!』(江川達也著、ぶんか社、2004)より引用(09)
育児評論家や人権派の人たちに言わせれば、体罰はいけないということになっている。
しかし、言葉で言い聞かせても通じない人間には、抑止力として体罰を行使する可能性を残す必要がある。
「これをすれば殴られるから、やめておこう」という、そういう抑止方法が効果的な人間は存在する。
教育の現場から体罰を一切排除してしまうのは、刑罰を一切なくし、本人の良心に任せて犯罪をなくそうとするようなもので、不可能なのである。
体罰が問題となっているのは、言葉で諭せばわかる子どもにまで、簡単だからと言葉より前に体罰を与えてしまうからである。
体罰を全て一括りに取り上げて、全面的に排除するという画一的なやり方はリアリティが欠如しているのである。
以前、戸塚ヨットスクールが、スパルタ式教育で死者を出すに至り、あそこでの教育法は誤りだったとされているが、オレはそうは思わない。
あのやり方が一番しっくり来た子どもだっていたはずだ。
問題だったのは、その教育方法が合わない子どもにも、そのやり方を適用したことにある。相手に応じた対処の仕方こそ重要なのである。
では、体罰を科すべきか、話してわからせるべきかの線引きはどうやって行うのか、誰がそれを判断するのかと、人権派はオレに反論するかもしれない。
しかし、その人たちは個性を無視した、画一化された教育こそが問題であると、さんざん声高に叫んできたのではないか。
一人一人の子どもに合わせた教育のしかたを教育現場が真剣に考えるのは、当たり前のことだろう。
↑(引用ここまで)
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…『しかし、言葉で言い聞かせても通じない人間には、抑止力として体罰を行使する可能性を残す必要がある』。
育児はもちろんのこと、恋人や友人、職場の人間に、「あ、こいつオレのことなめてるな」「本人は自覚してないかもしれないけど、オレのことを軽視した言動になってきたな」と感じる場面は、けっこう多くあると思います。
そんなとき、そういった態度に対する『抑止力』として、「体罰」とはいかないまでも、「これ以上は許さないよ」という意思表示のできるカードを常日頃から持っておく必要がある、と私は考えています。
「きっとわかってくれる」「自分が我慢すればいい」といった考え方では、相手をどんどん調子に乗らせる結果になってしまうと、私は経験上、そう痛感しているからです。
…私は、自分のことを、根っからの「甘ちゃん」だと自覚しています。
特にこれといった悩みもなく、仕事や衣食住、金銭的余裕や精神的余裕、日々を楽しく過ごすのにあってほしい人間関係も十分にあり、また余裕があるから、大きなトラブルや失敗があってもむしろ「いい経験ができてる」と、ひとり勝手に傷つきながらもすぐに自己修復でき、またそういった多くの失敗経験があるから、たいていのことには「たぶん対処できるでしょ」と言えるくらいの自信もついてきています。
そんな私は、他人に対して「この人、なんでできないんだろう?」「この人、なんでこう考えられないんだろう?」「なんでこんな簡単な気配りができないんだろう?」「現状でいっぱいいっぱいなのかな?」なんて偉そうなことを考えながら、じーっとその人を見ています。まったく、イヤな奴ですね(笑)。
ただ、それだけに、「この人は、今たまたま余裕がなかったのかもしれない」「今までにこういう経験をしてなかっただけなのかもしれない」と、簡単に他人を「赦(ゆる)してしまう」自分がいることも、十分に自覚しているのです。
「自分はできるのに、他人はできない」と自惚れる気持ちなんかより、「そういった他人とどう付き合っていくか」「いろんなタイプの他者にどう対処するか」という緊張感の方が、最近では大きい気がします。
私は、常に「試されている」と。
そして、「できる人」ばかりでない、いろんなタイプの人間に対処するために必要不可欠なカードは、多いに越したことはない、と思うのです。
「赦(ゆる)す」「甘やかす」「ただ黙って見ている」カードしか持っていないから、そうせざるを得ない人(まさに5年前の私です)。
「他人・子どもに厳しい」「他人・子どもを叱れる・殴れる」「自分の意見をきっちり言える」カードしか持っていないから、そうせざるを得ない人。
どちらも、ある一定の範囲の他人や子どもにしか対応できない、対応能力の低い、中途半端な「オトナ」だと私は思うのです。
…たまにいるんです。こういった私の「他人や子どもをしっかりしつけよう」といった論調にめちゃくちゃ賛同してくれる人が。
でも、それは、私の中に「他人や子どもについ甘い顔をしてしまう」「他人や子どもを赦(ゆる)してしまう」自分がいることを知っているからこそ、必死にバランスをとろうとしている姿勢を文面化しているのであって、そういったバランス感覚に欠いた「子どもはしつけるべきだ」論をもって共感されても、「『選択肢』の話をしているのに、片方にだけ賛同されてもなあ」と違和感を感じてしまうのです。
また、その逆も然りです。
江川氏の言うような『抑止力』と、私の中にあるような「他人を赦(ゆる)す心」。
何かの評論家だったり、宗教家だったりの発言から、「このどちらにも配慮しているな」「バランスをとろうとしているな」と感じさせられることなんて、まずありません。
「もっと~すべきだ」だとか、逆に「まずは認めてあげることが大切」だとか。
「自分の思考や言動のバランスを保とう」「まともな自分でありたい」と思っていれば、そんな簡単な物言いになるはずは、ないと思うんですけどね。。
