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↓『江川達也のニッポンを鍛えろ!』(江川達也著、ぶんか社、2004)より引用(08)
今は、学校でも家庭でも、まともなしつけが行われていない。その元凶となっているのが、巷にあふれる育児書だの教育書の類である。
多少なりとも教育に関心のある親ならば、書店の教科書コーナーに立ち寄り、ズラリと並ぶ育児のマニュアル本や啓発本に手を伸ばしたことがあるだろう。
そこには「子どもは叱ってはいけない。冷静に諭せば必ずわかってもらえる」「子どもには無限の可能性がある。
旺盛な知的好奇心があるから、子どもの主体性を大切にしよう」「褒めてやる気を出させれば子どもは伸びる」……など、耳ざわりのいい言葉がいくつも並べられている。
しかし、そういう類の本は、売れるように書かれているということを頭に入れておくことが必要である。
たしかに言葉で諭せばわかると思えば、親も気が楽であるし、自分の子どもには無限の可能性があると思っていた方が希望も出る。
また、子どもを褒めてやれば、自分がいい人間になったかのような気分に浸れる。
つまり、これらの本に書かれていることは、親が気持ちよくなれることばかりで、だからこそ売れるのである。ただのエンターテインメント本なのだ。
だから、リアリティはまるでない。本来のしつけを考えた場合、全く役に立たない「ざれ言」でしかないわけだ。
例えば、子どもの本能には暴力的な部分があるし、言葉でいくら諭してもわからない子どもというのも現実にいる。そんな子に、「主体性を大事に」などと甘い態度で接していたら、大人として何も教えることなどできない。
子どもの心身を健やかに育てるのは、その国の大人の責任である。だがそれは、人間として未完成な存在を、諸手を挙げて尊重し、心地いいように甘やかすことではない。子どもにはまだ人権も選挙権もないのである。
↑(引用ここまで)
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…『そんな子に、「主体性を大事に」などと甘い態度で接していたら、大人として何も教えることなどできない』。
あなたは、自分の子ども、ひいては日本の子どもたちに必要なのは、「主体性を認めてあげること」だと思いますか? それとも、「きっちり身の程をわからせてしつけること」だと思いますか?
私は、どちらにしても、その教育方針が親の、社会の大人たちの「コントロール」「計算」の下で行われているかどうかが、重要だと考えています。
ベースは、「そいつにはそいつの人生がある」というスタンスでいいと思います。
…「子どもの人生に自分の願望を重ねたい」なんていう欲求は、育成ゲームか何かで発散すればいいのであって、現実の子どもに対してそれを実行するのは、「個人的なメリット」に寄りすぎていると私は思います。「別に自分の子どもなんだから、自分の好きにしていいじゃないか」と思う大人は、育児の「社会的役割」という面を軽視しすぎています。
ただ、『人権も選挙権もない』ガキんちょの「判断能力」が疑わしいのも事実なので、しつけるにしても、いくつか選択肢を与えてやったり、主体性を大切にするにしても、本人が調子に乗ってカン違いを起こさないように制限を設けたりする「コントロール」。これが重要になってくるはずです。
でも、そういった「バランス感覚」に優れた視点をもっている人って、あまり見ないんですよね。。
「衣食住の面倒見てもらっている分際で、ナマイキ言ってんじゃねえ」なんて言って、身の程をわからせてばかりではイカンと思うし。
「そのままのキミでいいんだよ」なんて言って、調子に乗らせてばかりでもイカンと思うし。
…ポイントなのは、教育的言動のひとつひとつに、「自分が気持ちよくなるため」が出来る限り排除されていること。
冷静に、計算高く、大人の「役割」として、「今、こいつに必要なことは何なのか」を見据えた教育的言動であることが必要だと思うのです。
親が、子どもを「かわいい」と思える気持ち。
学校の先生が、生徒を「かわいい」と思える気持ち。
何か「それだけで十分素晴らしい」みたいな雰囲気が蔓延しているきらいもありますが、「子どもを鍛え、強化することができる」能力がない人にそんなことを語られても、何の魅力も感じませんよね。。
