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↓『現実はマイナーの中に』江川達也著、ウェイツ、2004)より引用(05)
欲望には段階があるけれど、普通に発展していけば何番目かに「認められたい」という欲望が、そうとう大きなものとしてある。
衣食足りてくると、やはり人から認められたい、人の気持ちがこっちに向いていて欲しいと思うのは、人間の本能だと思います。
でも本能にあまりにも忠実だと、ムカツクつやはぶっ殺せみたいな話になる。
暴走してはいけない。
どこかでほどほどにしなければいけないけれど、いまはそれができない状態になっています。
ほどほどにしないから、本質が見えてこなくなってしまうわけです。
「腹八分にしておきましょう」「食うことにそんなに興味をもってもしょうがないじゃないですか」と思いますね。
ただ、「認められなくてもこうやって暮らしていればいいだろう」「これぐらい認められたらいいだろう」と思っていても、作家をやっていると、ついもっともっと認められたいと思うようになるものなんです。
手塚治虫みたいな人は、過度に認められたくなるタイプですね。
水木しげるは、どこか認められたい気持ちが薄い感じがするんです。
だからこそ、世界が正しく見える。
認められたいという思いがあまりにも強くなってしまうと、盲目的になってしまう。
だから認められたいという気持ちは、ほどほどにしたほうがいい。
適当なところで、「認められなくてもオーケー」という訓練をしておかないと、ずっと認められ続けていると、それが当たり前になってしまう。
異様に認められてしまうと、それを維持したくなる。
そして結局、作家やミュージシャンは崩れていってしまうわけです。
「本当は自分って何だろう」という矛盾から始めたものが、いつの間にかすり替えられて、「人から認められよう」という目標に移動してしまう。
途中で「認められることに縛られてはいけないんじゃないか」ということに気づけば、作家として最初に志した方向へ戻れるんです。
↑(引用ここまで)
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なにも作家に限らず、子どもでも大人でも、誰かに認められたり、褒められたりすることは、つねに欲して暮らしていると思います。
特に子どもはそれが顕著で、「自分の居場所」感というか、「自分はここにいてもいいんだ」という「赦されている」感が日常的にないと、極端な引っ込み思案になるか、または極端に攻撃的な言動をするようになるかして自己防衛していかないと、やりきれないはずです。
…大人でも、周りからいつも「あいつはすごい」と評価されている人が、他人に攻撃的すぎたり、おどおどしすぎたりする必要はないですもんね。
でも、その「認められたい」欲求が「過度に」なってしまうと、「他人に認められるために○○する」「褒められるために○○する」といった「本来の自分のカラー」とは違った部分が、自分の暮らしや思考パターンの多くを占めるようになることは想像に難くありません。
育児でも「褒めて伸ばす」とか何とか言って、必要以上に子どもを褒めるポイントを探してあげすぎて、「褒められる」「認められる」というアメなくしては何をやるにもモチベーションが上がらない人間になってしまうことって、よくありますよね。
…特に親のほうも「子どもに嫌われたくない」「子どもからも認められていたい」という欲求を「過度に」持っている場合も多いと思います。
「子どもをしつけて、社会へ送り出す」という「社会的役割」よりも、個人的な「認められたい」欲求が上位にきてしまう、典型的なパターンですね。
そんなパターンに陥らないためにも、江川氏も言うような、普段から「認められなくてもオーケー」という「あそび」の部分を意識して持つようにしておく必要があると、私は強く感じています。
