里中李生氏の文章をテーマに扱ってはや14回。。
「それはちょっと違うんじゃないか?」という意見が、よく寄せられます。
人によっては、かなりの難色を示されます。

そこで今回は、なぜ私がこんなにも「差別的」な里中氏の文章をテーマとして扱おうと思ったのか、ということを補足したいと思い、そのあたりの理由や思惑について書かせていただくことにしました。


…かくいう私も、「慢心は醜い」と言いながらも言葉の端々に「慢心」「自信」が見え隠れする里中氏の文章が、実はそんなに好きではありません。
ただ、彼の主張する「男は仕事・女は家庭」を私が全否定できないでいるのは、日本の将来像に対する明確なビジョン・代案が私自身出せないからなのです。
「少子化問題、どうやって解決するの? 労働人口と要介護人口のアンバランスはどう解消するの?」「少年犯罪の増加、どうやって解決するの? 『家庭』そのものが軽視されている現状をどう解決していくの?」「日本はどんな国になっていくの?」という問題に対して、里中氏は(それが正しいかどうかは別にして)明快に答えます。それは「男性の女性化・女性の男性化」が原因だと。その現状を修正すれば、多くの諸問題が解決する、と。
…かなり強引な話ではありますが、客観的に考えて、「解決策のひとつ」には、なり得ると思います。


…少なくとも私は、代案も出せない奴が、彼の主張を否定してはいけないと思っています。
そして、彼の主張が「日本の将来像」となる可能性が0%とは言えないぞ、とも思うのです。
肯定はしません。
ただ、民主主義の行き着く先である「衆愚」にスポットを当て、「自分のアタマで考えていない」「自分の言葉を持っていない(奴が多い)」というあたりを指摘している点は、評価できると思っています。


私は、岡田斗司夫氏が『自分の気持ち至上主義』と現代人の行動原理を評したように、「少子化問題? そんなの誰かが考えるでしょ。私は仕事がしたい」「少年犯罪が増えてる? そんなの誰かやりたい人が解決してくれるでしょ。私は自分の生活で手一杯」といった「みんな自由気まま」に突き進むことは必然の流れだろうなとは思いつつも、「本当にこのまま『みんな自由』でいいんだろうか?」「共通の『信念』をもった生活単位(家庭・地域・国)はなくなっていくんだろうか?」という不安もぬぐえません。


…たとえば、宮崎県の東国原元知事は、県内の小中学校をすべてまわって「県外からお越しの方にも自分から挨拶をしてください」「ゴミを見かけたら拾ってください」と言い続けていたそうです。これもひとつの『信念』『美しさ』の強制ですが、県民がこの「強制力」「不自由」を必要悪として認め、その輪が広がれば、それは「共通の信念を持った生活単位=ひとつの国」になっていくと思うのです。
そしてそれは、「誰か」の、ごく個人的な、本来他人には強制してはいけないような「願い」「意図」からスタートしている、ということも事実だと思うのです。


…だからこそ、私はあえて里中氏の文章をテーマにしたかったのです。
単に「昔は良かった」では終わらない「これからあえて『不自由』を選択する」というスタイルを訴えるため。
民主主義の最大の弱点である「衆愚」、つまり「自分は自分の生活が一番大事。国の将来のことなんか誰かがやってよ」と(男も女も)思ってしまうことを、もっと現実視してもらいたいため。

私は「『自由』には価値がある、『不自由』には価値がない」と決めつけてしまいがちな現代人の性質に、一言物申したかったのです。


里中氏の文章に対するみなさんのリアクションが、その「現代人の性質」を物語っているようにも思えます。
里中氏の文章はさしずめ、今日ではめずらしい『不自由』の代表みたいなもんです。
そんなに拒否反応を起こさないでください。
そして、どんな『不自由』や『強制』が、『自由』ボケしたこれからの世の中で、ある種「必要悪」として共通理解されていくのか(いかないのか)、私と一緒に考えましょうよ。
私も含め、現代人は、『自由』を過信しすぎなんです。


封建的な家父長制による「家庭の安定・国の安定」「だけど役割は強制」(A)と、民主的な『自分の気持ち至上主義』による「選択の自由」「だけど不安定」(B)とを、両方経験した(両方を知っている)私たちになら、次に進むべき道がきっと創造できるはずです。
それは、「昔は良かった」なんていう『不自由と安定』に偏った単純なノスタルジック(A→B→A)でもなく、「ひとりひとりが意識を高く持てば云々」なんていう『自由と不安定』を妄信したもの(A→B→B)でもなく、もっとバランスと共通理解のとれた、そしてちょっと強引な新しいスタンス(A→B→C)であるような気がします(民主的に100%の共通理解を成立させることは、事実上不可能だからです)。
そういう意味では、里中氏の主張である「男は仕事・女は家庭」なんていう単純な図式では、これからの世の中を生きる私たちにとってまだまだ役不足なのかもしれません。


…そんな視点で見れば、「里中氏の主張はどう見積もっても前時代的な男尊女卑だ。みんな自由に、誰にも強制されずに、男も女も関係なしに、仕事と家庭のバランスを自分なりにとって生きればいい」(A→B→B)なんて正論こそが、今や「前時代的」な時代遅れの意見になってきていると私は感じているのです。
そんな正論は、誰だってわかっているんです。
もはや「前時代vs現代」(AvsB)なんていう構図自体が、「前時代的」なんです。
「『前時代』なんて、懐かしさを謳うばかりでダメダメ。みんながひとりひとり主役の『現代』が、あたりまえでしょ」(A=×、B=○)なんて物言いが、聞いていて恥ずかしいくらいに、古ぼけてきていると思うのです。
「みんな『自由』を求めすぎて、考え方も、生き方も、バラバラになってしまった。これからは、どういう世の中を目指していけばいいのか?」(A→B→?)
こんな、次なる「不安」が、まさに今、私たちのテーマとなっているのではないでしょうか。
私は、それを模索したい。
『自由』と『不自由』をあえて調和させた、次なる「生き方」を。


…こんな主旨をご理解のうえ、また次回よりご愛読ください。そして、ご意見ください。
よろしくお願いしますm(_ _)m。
どうか、里中氏という『不自由』『強制力』を、「新しい生き方」の踏み台にしていってくださいますように。


ペタしてね