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↓『30独身女、どうよ!?』(岡田斗司夫著、現代書林、2001)より引用(37)


う:ネットで、好きなジャンルの音楽のホームページを作っている人にメールを出したら返事が来て、会ったことある。似たような経緯で、他にも2人の男性と会ったんだけど。


岡:ダメだった?


う:すごいつまんなかった。


岡:あれですよね……キーボードを叩く指先に脳みそがついているような人たち。


う:そう、そう、そう! うまい!


岡:モニター上では味のある人格してるのに、実際の人間に会うと魅力がわかんないっていう。


う:そんな感じ。ホームページはおもしろかったのに。あれって不思議。おもしろいものを出しているから、会ったらおもしろいかと思ったんだけど。例え恋愛対象にならなくてもねえ。
なぜ、そこそこちゃんとおもしろいものを作りながら、つまんないの?


岡:いや。そこがいっぱいいっぱいなんじゃない? 自分が他人にお見せできる一番いい部分がそのホームページの文章なんだろうね。実際会うとそこからどんどんバージョンダウンしていく。


↑(引用ここまで)
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…『そこがいっぱいいっぱいなんじゃない?』


私も若かりし頃は、『自分が他人にお見せできる一番いい部分』と、自分の「本当の対応能力」のギャップにずいぶん悩んだものです。
自分の得意な話題では流暢にしゃべれるけども、他の話題ではだんまり。自分の意見がない。というか、知らないことの方が多い。たまに知ったかぶりなんかもしてしまう。
初対面の人なんかに短時間で愛想を振りまくのはできるけども、長時間持たない。必ずボロが出る。「リップサービスによる疲れ」と「自分の満足」のバランスがとれない。


やっぱりこれではダメなんです。
調子のいいときは100点のパフォーマンスを出せたとしても、それ以外の対応能力が0点では、せいぜい平均点は30点くらいでしょうか。
今の歳になって思うのは、「教養」や「ゆとり」がないと、他人を満足させ、自分も満足できる平均点70点以上の対応はできない、ということなんです。


たとえば、最近のニュースかなんかの話を振られたとき。
若かりし頃の私だったら、仮にそのニュースのに知識と興味があった場合、おそらく一生懸命自分の知識をひけらかして、しゃべってしまうと思うのです。100点取れそうだから、取りにいってしまう。その場の空気とは関係なしに。
でも、きっと今の私なら、「ニュースに関する知識」「その場を盛り上げる笑い」「空気を読めない人の話をうまく受け流す」などの選択肢の中から、いちばんその場に合った対応をすると思うのです。


…もし自分がしゃべりたくてしょうがない話題だったとしても、話の流れでオチが必要になってくるようなら、「笑い」にもっていく。「知識」はあるけど、しゃべりたいけど、そこはグッと我慢して黙っておく。場合によっては知らないふりすらします。
…また、もし本当にそのニュースの詳細や考え方を聞いてみたい空気があるなら、自分の知っている「知識」をわかりやすくしゃべる。


そういう多くの引き出しの中から、その場にいちばんピッタリな対応をする。
私が実際に起こしたアクションの他に、実はいくつも選択肢があったことなんて、他人の目には写らない部分です。
つまり、冒頭の文章でうさぎが会ったというホームページの人が『そこがいっぱいいっぱい』『すごくつまらなかった』と言われてしまうのは、その他人の目に映らない「選択肢」がなかったからなのです。


その対応しかできないから、そう対応する。
他にも選択肢はあるけど、そう決めて対応する。
どちらも他人の目から見たら同じアクションですが、「幅広い対応ができる深みのある人間であるか、どうか」という視点で見ると、雲泥の差があると思うのです。


できることなら、後者でありたい。
いろんな場面でボロを出していた私の若かりし頃を思うと、「大人になったなあ」と今の自分に声をかけてあげたくなるのです(笑)。


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