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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(27)


年寄りをジジイだのババアだの呼んでいた、俺のような下町の悪ガキでもそうだった。
年寄りが立っているのに、若いのがボケッと座っていたりしたら、間違いなくどこかのオヤジにどやされた。
もちろんシルバーシートがあろうがなかろうが、だ。
かつては、そういう時代があったのだ。
今じゃ間違っても、年寄りをジジイとかババアとか呼んではいけないことになっている。
お年寄りは大切にしなくちゃいけないからだ。
けれど、そういうことをわざわざ言うことに、俺はどうも抵抗を感じる。
要するに、年寄りは可哀想な人なんだと言っているようなものだから。


大切にしようなんて言いながら、年寄りを疎外しているわけだ。
お年寄りと言った瞬間に、お年寄りのポジションに追いやっている。シルバーシートと同じだ。


(中略)


当たり障りのない言葉で言い換えて、ないことにしようというのは日本人の常套手段だ。
お年寄りだのシルバーシートだの、歯の浮くような言葉で誤魔化して、実際には年寄りを社会の片隅に追いやっているのだ。
その証拠に老人ホームに押し込めておいて、お年寄りの幸せのためにとか何とか言っている。
こういうのを世も末と言う。


俺もそろそろ年寄りをどう呼ぶかより、自分がどう呼ばれるかを気にする側の年齢だが、お年寄りなんて呼ばれるくらいなら、このクソジジイとでも呼ばれた方がよっぽどマシだ。


気を遣うのは悪いことではないと思うけれど、気を遣うことを具体的に言葉や文字で表現することの間抜けさにどうして気がつかないのだろう。


↑(引用ここまで)
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「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲りましょう」。
「マナーを守りましょう」。


…もう、笑っちゃいますよね。
「○○しましょう」という、「○○しないと罰せられます」でもなく「○○するかしないかは、個人の裁量です」でもない、中途半端な物言い。
見え見えの「私は注意しましたよ。だから、トラブルがあっても私の責任ではないんですよ」に、吐き気すら覚えます。


私が電車で席を立つのも、公共の場で静かにしておくのも、自分がそうしたいからしているのであって、別に「○○しましょう」というアナウンスがあるからではありません。
それは、みなさんそうなんじゃないでしょうか。


「あっ、アナウンスしているから、お年寄りに席を譲らなくちゃ」なんて、人に言われて行動するのは、まだ公共意識の出来上がっていない子どもだけでしょうし、そんな「子供だまし」にのっかる中途半端な大人なんて、はたしているのでしょうか?
…やらない奴は誰に何を言われても結局やらないし、やる奴は誰に言われなくてもやる。そう思います。


もっと言えば、自分はやりたいからやっているだけなのに、わざわざ「○○しましょう」とアナウンスされることで、「アナウンスされているからやっている」「ええカッコしたいだけやん」と思われるのが癪で、行動を起こさずに終わってしまうことだってあると思うんです。…私だけでしょうか?(笑)


『気を遣うことを具体的に言葉や文字で表現することの間抜けさ』。


そこには「私は一応注意しましたよ」と「一定数いる”公共意識の低い大人”への中途半端な対応」が見てとれ、苦笑いせずにはいられないのです。


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