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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(24)


子供がいい絵を描くことがある。
技術はもちろんないけれど、大人が考えもしないような発想の絵を描く。
そこまでは、何も悪いことはない。
ところがそこで、大人がよってたかってその絵を褒めて、その子を駄目にしてしまうということがよくある。
子供だって、迎合してしまうのだ。
大人に迎合した子供の絵は、もう面白くともなんともない。


商売人の値下げ合戦も政治家のバラマキ政策も、その根っこにある発想は同じだ。
ただ単に、世の中に迎合しているだけだ。
新しいモノは何も生まれないし、その先には滅びる運命しか待っていない。


↑(引用ここまで)
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「迎合」。
そりゃ確かに、誰もが「迎合はよくないことだ」と言うでしょう。
しかし、「周囲に気遣いをすること」と「迎合すること」は、紙一重だったりもするのです。


それは会社の資料だったり、日々の発言だったり、普段目にするテレビ番組だったり。
確かに「誰が見ても(聞いても)不快に思わない、クレームのつかない表現であること」は大切かもしれませんが、「一般性」を追求すればするほど、「万人受け」を想定すればするほど、その中身はつまらなく、独自性に欠けたものになるのは当然のことでしょう。


不特定多数に対する必要最低限の気配りは必要でしょうが(その「必要最低限」も要はその人のバランス感覚に依るのでしょうが)、私はもっとみんな自分勝手でいいのに、もっとみんなクレームを恐れなくてもいいのに、と思うのです。
とかく最近は、「万人に受けるもの」=「いいもの」、「ちょっとでもクレームがつくもの」=「ダメなもの」とする傾向が強く、その人の「独自性」「ユニークさ」が見えてこないことが多いように思います。


「迎合はよくない」と言うのは簡単ですが、「クレームを恐れない」姿勢を持ち続けるのは、相当しんどいです。
特に日本は、「出る杭は打たれ」ます(みつなり調べ)。
だから私は、「迎合はよくない」と言うのが許されるのは、「クレーム」と「気配り」の間を行ったり来たり、日々戦っている人だけだと思うのです。


できれば、そんな「戦い続ける人」でありたい。そう思って、今日も「迎合していないか?」「周りに合わせすぎていないか?」と自問自答です。。


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