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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(16)


年金でも介護保険の問題でもなんでもそうだけれど、贅沢な時代だなあと思う。
汚い話だけど、昔はトイレが水洗になったってだけでも信じられなかった。
それがウォシュレットにまでなってしまって、あの新聞紙でケツを拭いていた時代はなんだったんだろう。
だけど、どっちが人生に対する不安がないかと言えば、俺はあの新聞紙の時代だと思う。
今の人は、トイレットペーパーがなくなったり、水道が止まったりしたら、トイレにも行けなくなると大騒ぎするだろうけど、昔の人ならなんの不安もない。
だって、ケツは新聞紙で拭けばいいのだから。
新聞紙がなければ、藁だって蕗(ふき)の葉だってケツは拭ける。


今の世の中の不安というのも、つまりはそういうことなんじゃないか。
幸せな暮らしというもののレベルが上がってしまって、昔の普通の生活が今は悲惨な生活になってしまった。
それで、年寄りが将来を不安に思って自殺したりなんかするようになったのだろう。
昔の常識で言えば、そもそも年寄りに将来なんてなかった。


俺が若い頃の年寄りは、その日の食い物にも困るっていう経験をしているから、飢え死にしないだけでも幸せだった。
なんとか喰えて、たまには酒も飲めて、雨宿りできる家があれば、それで幸せだよなって思えたのだ。
派遣は悲惨だって言うけれど、よく考えてみれば、昔の職人はみんな派遣の日雇い労働者だった。


↑(引用ここまで)
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…『幸せな暮らしというもののレベルが上がってしまって、昔の普通の生活が今は悲惨な生活になってしまった』。


「今の日本の生活レベルがあたりまえ」「他人に世話してもらってあたりまえ」が過ぎると、人はちょっとしたことで「不満」を感じやすくなる。これは事実だと思います。


震災後に、計画停電が行われたとき。
普段の生活でも、炊事・洗濯・掃除・育児を自分ひとりでやらなくてはいけなくなったとき。


…そんなときに感じる「不満」は、「水道・電気・ガスがなくても、けっこう楽しくやっていける」「炊事・洗濯・掃除・育児も、てめえひとりでやるのが普通」という「覚悟」がないから生まれてくると思うのです。


いつだったか、江川達也氏が言っていました。
漫画やテレビ番組、映画、音楽などのエンターテインメントは、人間がもつ「幸せ」のハードルを上げるものばかりで溢れかえっていて、逆に「幸せ」のハードルを下げるもの・「足ること知る」ものは市場に出回らなくなってきている、と。


少女漫画や恋愛小説、テレビドラマ、女性向け雑誌は「恋愛はこうあるべき」「”恋愛”してない奴は”不幸せ”」というハードルをいまだに上げつづけていますし、ニュースや新聞・広告は「精神的・物質的に日々このくらいは満たされていないと”負け組”」といったような「贅沢」のハードルを上げる内容を恥ずかしげもなく発信し続けています。
美味しい食べ物、素敵な旅行、幸せな家族生活…これでもか、というくらいに「生活スタイルの基準をちょっと上げませんか?」を押しつけてきます。


…こんなことに日々危機感を覚えて、必死に「足るを知る」自分を保とうとしているのは、私だけですかね(笑)? みなさんは、危機感、感じませんか?
それこそ、新機種が次々と出される「スマートフォン」なんて、その最たるもんだと思うんですよ。
毎月の料金がバカ高い「子どもの遊び道具」のような「贅沢品」にすぎないものを、あたかも「生活必需品」であるかのように購買意欲を煽り、売り込む姿には、「誰がそんな”子ども騙し”の流れに乗るか、バカが」「携帯電話を”必要としない”新たなスタイルは売り込まないのかね」と苦言を呈さずにはいられません。
「本来、必要のないもの」をあたかも「必要なもの」であるかのように思い込ませるのは、商売人の古典的なやり口ですよね。


「トイレットペーパーがなかったら、最悪、新聞紙でええやん」「電気や水道のない生活も、やってみたら楽しいやん」と言える精神状態で日々を過ごすこと、「足るを知る」精神をもって、安易な「エンターテインメント」品に飛びつかないことこそが、いちいち「無い」ことに不満を感じず、人生を「幸せ」に生きる秘訣なのかもしれないと、特に最近思うのでした。


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