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↓『哲学』(島田紳助・松本人志著、幻冬舎、2003)より引用(15:紳助)
番組の中で僕と松本がクイズの出し合いで勝負をしたことがある。
僕があいつに、ある問題を出した。あいつが答えられなかったので、僕がヒントを出して、ようやく答えを出した。
そのとき、僕が「俺の出したヒントは編集でカットしとこう」と提案した。そうすれば、テレビの視聴者にはヒントなしに松本が答えたように見えてカッコがつくからと。そこで客は笑う。いってみればひとつのネタとして、その話はそこで完結するわけだ。
問題はその後だ。
今度はあいつが僕に四択の問題を出した。ところが僕は、四つの選択肢を聞く前に、答えをいってしまった。そこであいつはどうしたか。
「それでは紳助さんがカッコ良すぎる」とあいつはいいだしたのだ。
だから僕がすぐに正しい答えをいったにもかかわらず、今から四択の選択肢を読み上げるから、それを編集でつないで僕が答えを出す前にはさみこもうというのだ。
もちろん客は大爆笑したのだが、この松本の返しは、実はきわめて高度なものだということにどれだけの人が気づいていただろう。
笑いのパターンとして、繰り返しというのがある。
同じパターンの話を繰り返すことによって、笑いは雪だるまのように、ローリング現象を起こすのだ。ひとつひとつの話のおもしろさが1とすると、繰り返すことによって1+1が2ではなく、3にも4にもふくれ上がる。
この場合だったら、松本へのヒントを編集でカットしておたがいをカッコ良く見せようという僕の計略をネタにして、次にまた同じパターンで笑いを取る。そうすると、繰り返しの効果で一回目よりも二回目はよりおもしろく感じるわけだ。
このテクニックは、お笑いをやっているものだったら誰でも使う。
ところがあいつは、同じパターンを繰り返さずに、パターンを一回ひねってしまった。
カットして格好良く見せかけようといった僕に対して、逆につけくわえて僕をカッコ良く見せまいというわけだ。同じパターンではなく、逆のパターンで返すことで、より巨大な笑いのローリングを起こしているわけだ。
そんなことをすんなりできる奴は、そうめったにいるものではない。
↑(引用ここまで)
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…トークのセンス。機転。
紳助氏のこの例でいうと、本来であれば「失礼」にあたる発言をすることのおもしろさ、なんだと思います。
松本氏がわざわざヒントをカットしてもらうことで、あえて「カッコ悪さ」を強調するという、おもしろさ。
『それでは紳助さんがカッコ良すぎる』と、相手を「カッコ良く見せまい」とあえてジタバタするという、おもしろさ。
その場の「常識」で許される言動の範囲が1~10だとしたとき、相手の許容量(これを松本氏は「お笑い視力」という)によって11とか15だとかいう飛びぬけた「失礼」を使い分けているのです。
しかし逆に、その場では自分的には15くらいの「失礼」がおもしろいと思ったとしても、相手に本当に「それは失礼だ」と思われてしまっては、おもしろくなくなってしまうのです。ちょうどギリギリ許されるか許されないかの13とか14とかのあたりをねらうことで、そのギャップに笑いが起きるのです。
私が思うに、そこにも、「笑い」や「コミュニケーション」に対する、ひいては相手に対する「配慮」の有無が関係しているのです。
相手の、その場の、「お笑い視力」を見極めること。
「自分がしゃべりたいから」ではなく、「相手がどう受け取るか」にどこまで配慮できるかということ。
安易な下ネタ。。
しつこいほどの同じネタの繰り返し。。
その人の「笑い」の取り方ひとつとっても、その人がどれだけ他人に「配慮」できる人なのかどうか、わかるものです。
きっとその人は、今その場で14まで許されているのか、15まで許されているのか全く計らずに、自分の言いたいがままに16の下ネタや6,7くらいのギャップも何もない「繰り返し」を安易にやっちゃっていると思うのです。「KY」ってやつです。
…なあ~んて、「笑い」と「コミュニケーション」について普段からこんな目線でもって生活しているなんて、気持ち悪いですね。。
