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↓『超思考』(北野武著、幻冬舎、2011)より引用(10)
仕事の本当の面白さとか、やりがいというものは、何年も辛抱し続けて、ようやく見つかるかどうかというものだろう。
最初から簡単にできたら、面白くともなんともない。
昔の職人は、親方に弟子入りして、殴られたり蹴られたりしながら仕事を覚えた。
理不尽な扱いをされたこともあっただろうし、給料だってロクに貰ってはいなかったろう。
それでも、他に行き場がなかったから、必死でそこにしがみついていたわけだ。
その苦しさとか悔しさがあったから、仕事が上手くいったときの喜びもあったわけだ。
それを、仕事のやりがいと言ったのだ。
その仕事のやりがいを、金で買おうとしてはいけない。
自分に合った仕事を探すという考え方がそもそもの間違いだ。
そんなものはない。
お腹の中の赤ん坊が、「自分に合った世界に生まれたい」なんて考え始めたら、この世に生まれてこられるわけがない。
仕事を探すのだって同じ。
仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせるのだ。
↑(引用ここまで)
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…『お腹の中の赤ん坊が、「自分に合った世界に生まれたい」なんて考え始めたら、この世に生まれてこられるわけがない』。
「自分に合った仕事」「自分らしさ」「個性」だなんて言い出したのは、いったいいつ頃からでしょうか。
まるでみなさんひとりひとりが、世界の中の「主人公」で、それに「仕事」や「環境」が合わせろ、と言わんばかりの昨今の「甘ったれ」な風潮には、本当に嫌気がさします。おまえなんか、全然「主人公」とちゃうわ、って。
たけし氏の赤ん坊の例えはそんな風潮を見事に形容してくれていて、それこそ巷のガキや若者には、「自分の個性を見つけよう」「自分に合った仕事を探そう」ではなく、「おまえがどんな環境にでも適応できるようになれ」と教え込んでやるほうが、どう考えても筋が通っていると思うのですが、それを実践できている親や教師、大人たちは少ないように思います。
たとえば、自分がゴミ袋なんかをまとめて片づけているとき、「自分がやります」と動かないガキや若者がいたら、面倒でもきちんと叱ってやる。
「自分がラクをしたいから」怒っているのではなく、「先に気付かない怠慢さ」を指摘していることも、ちゃんと伝えて叱ってやる。
できるなら、「誰もがやりたくない面倒くさいこと」を率先してやる献身的姿勢にこそ人間としての価値があるとも教えてやる。
たとえば、席を立つときに椅子を入れない若者がいたら、「椅子はきちんと入れろ」と指摘してやる。
その机と椅子はそいつ自身の持ち物ではないこと、スポーツマンが競技場に足を踏み入れる際に「礼」をするように、仕事をさせてくれている「場」「環境」に感謝し、大事に扱うこと、そういう姿勢を見る人は見ていることを、ちゃんと教えてやる。
こういう「面倒くさい」「言ったら嫌われそうな」「自分がやってしまえば簡単な」ことを、若い世代にきちんと・ぐちぐちと言い続けてやることで、「気付く」「自分から動ける」若者が育つのでしょうし、そうして「周囲への配慮・気遣い」を学ばされてきた若者は、「自分に合った仕事ないかなぁ」なんて言わないと思うのです。
「労働」の根本は、「他人のために動き、その対価として賃金をもらう」ことなのですから。
「自分が気持よく過ごせる」ことにしか価値を見いだせない人間が、「仕事ができる」「仕事に充実感をおぼえる」ことなんて、できるはずがありませんよね。
こんなことを言っている私だって、常にやれているかといえば「できる限り指摘するようにしている」「指摘するからには人一倍動くようにしている」くらいにしか言えないのですが、自分の子どもにせよ、勤め先の若者にせよ、「こいつが出先できちんと配慮ができて、周囲の大人たちにかわいがってもらえるか?」と考えると、大人としての「役割意識」が私の胸をつつくのです。
また逆に、こういう「指摘」をしない大人の多さが、『自分に合った世界に生まれたい』『自分に合った仕事を探したい』系の「甘ったれ」どもを量産しているようにも思えて仕方ないのです。
