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↓『哲学』(島田紳助・松本人志著、幻冬舎、2003)より引用(07:松本)


クラブで皿を回している人間の中にもよくいる。
たとえば、ニューヨークとかに何年か行って戻ってきたとかいう奴。
そういう奴がいう台詞が気にくわない。
「日本のクラブのノリはぜんぜん違う。ニューヨークではどうたらこうたら……」
すっごい腹が立つ。
日本人が日本のノリをやっていて何が悪い。
それはそれで、日本のノリではないか。
それを通す方がずっとカッコいい。その日本のノリを、プラスに変えていくということをどうして考えないのか。
それが日本人で、他の国にはないもので、それが個性というものだろう。
ラップにしても、するならしたらいいけど、それがなんで帽子を斜めにかぶって、ゴチョゴチョしたのを首からかけて、何でもかんでもあいつらと同じようなふりをする必然性がどこにあるのか。
そういうのがまったくわからない。
外国人の物真似ばっかりして、その先に何かあるとでも思ってるのか?
自分らしく、日本人らしくする、っていうよりも自分自身をちゃんと持つってことだろうが。
みんな一緒のファッション。髪型。多すぎる。


↑(引用ここまで)
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…『ラップにしても、するならしたらいいけど、それがなんで帽子を斜めにかぶって、ゴチョゴチョしたのを首からかけて、何でもかんでもあいつらと同じようなふりをする必然性がどこにあるのか』。


オリジナリティ。
なんでラップやる奴は、みんなあんなような格好をするのか?
なんでとりあえずブランド物を持とうとするのか?
「人は見た目で決まらない」と世間は言いますが、私が思うに、いかに他者との差別化を図ろうとしているか、自分の独自性を追求しているかということは、やっぱり、一番「見た目」に表れるもんだと思うのです。
「○○系」なんていう言葉に括られない、誇らしい自分でいたい、とそう思うのです。


…以前、「【哲学】024:表現されない「こだわり」は、「こだわり」とは呼べない。」で、私は島田紳助氏の『ぼくの生きかた』のこんな文章を紹介しています。↓


みんな、自分のブランドを探している。
それがわからない人は、商品のブランドに走る。かばんひとつに何十万もかける。
もし、自分だけのブランドがわかったら、そっちはいらなくなる。
自分ブランド。ひょっとしたら、それは、他人には理解できないものであるかもしれない。
たとえば、山登り。山登りする人にとって、高いブランドもののバッグを買うねえちゃんは、アホに見える。「かばんなんか、たくさん荷物が入って丈夫なものがいちばん」と笑うだろう。
彼らは、まず「次の休みに近所の山に登ろう」と思う。
次に「信州に行こう」そして「富士山に登ろう」と、少しずつ目標を高くしていく。行き着く先はチョモランマだ。そして、チョモランマに登ったら、次は冬のチョモランマに挑戦したくなるのだろう。その次は世界のチョモランマ級の山に登りきるわけだ。
夢としては、わかりやすいと思う。
わかりやすいけれど、一生かかるところはうらやましい。
やってみたいとは、思わないけど……。
かばんに夢を見るねえちゃんも、わかりやすい。
ナイロンのプラダを買って、ルイヴィトンのちっちゃいのを買って、次に大きいのを買って、誰ももってないエルメスのなんとかというバッグも買う。
ぼくには、山登りもかばんの追求も、どちらも同じに見える。
なんか、同じやん、普通やん、と思う。


…少なくとも『自分ブランド』を追求して生きている奴が、松本氏が嫌うような『帽子を斜めにかぶって、ゴチョゴチョしたのを首からかけて…』みたいな格好はしないだろうなあ、と私は思うのです。


「普通で何が悪いねん?」「他人のマネをして満足して、何が悪いねん?」と開き直られたら返す言葉もありませんが、「あいつはおもろい奴だ」と他人に言わしめる、カッコいい『自分ブランド』を追求していたいものです。


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