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↓『哲学』(島田紳助・松本人志著、幻冬舎、2003)より引用(04)
今は大学で司法試験の勉強をしている長女が高校生だったとき、こういうことがあった。
Mr.チルドレンが大好きだった彼女が、CDを買ってくれというのだ。
いくらだと聞いたら、三千円だという。僕はこう答えた。
「俺なあ、お前がよそのねえちゃんやったらなんぼでも買うてあげるんやけどな。CDなんか一日十枚でも二十枚でも、服でも何でも買うたるわ。そのおねえちゃんがそれで僕のこといい人やと思ってくれさえすれば、あとはどうなってもかまへんから。でも、お前は愛する娘やから、買うわけにはいかんのや。お前に俺がものを買うてやるやろ。お前は喜ぶわなあ。その喜んだ顔見て、親はすごく嬉しいのや。でもそれは、自分の金でCD買うというお前の喜びを、親が奪ってるのや。だから親は買うたったら、あかんねや。その喜びはお前の喜びにしなあかんねから。自分で買いや、がんばれや」
娘はわかったといって、その翌日から何か始めたらしい。学校から家に帰ってくると、毎日のように、腹減った、腹減ったといっていた。
一ヵ月後、娘はそのCDをかかえて僕のところにやってきていった。
「おっとう見てくれ、三千円のCD買うた。毎日昼食代を百円ずつ節約して買うたんや。めっちゃ嬉しいわ。おとうのいったことがわかったわ。なんか、自分で買うたっていう気がすんねん」
僕だって娘に、「ほかのねえちゃんにはなんぼでも買うたるんやけどな」なんて話をするのは、とても抵抗があるのだ。でも、その話が今は必要だと思うから、がんばって話をしているのだ。
おかげでウチの子供たちは、精神的にしっかり自立している。
↑(引用ここまで)
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…『その喜んだ顔見て、親はすごく嬉しいのや』。
喜んだ顔を見る、喜び。
私はその喜びが、人一倍大きい方だと思います。
私と付き合いの長い人ならおわかりいただけると思いますが、私は何をするにも、どこへ行くのにも、「自分が楽しむ」ことよりも「私と一緒にいる人に楽しんでもらう」ことを大切に考えてしまうのです。
それが良いとか、悪いとかは関係なく、そうしないではいられなくなってしまうのです。
自他共に認める、「世話好き」。
自分で言うのもなんですが、まるで、海へ行っても海へは入らずに、ずっと浜辺で子どもたちを眺めて微笑んでいる「おかん」のようです。
自分自身は、あんまり楽しまなくていいのです。
仲間や恋人が、私と一緒にいてくれて、楽しそうにしてくれているのが、たまらなく好きなのです。
そのための気遣いや準備は、全然苦にならないのです。
…自分のことながら、ちょっと気持ち悪いですね。
私は小さい頃からそういうところに喜びを感じる奴だったようで、小学校6年生からもらいはじめた月200円のお小遣いを、友だちに振る舞うためのお菓子や飲み物代にばかり使ってしまったり。自分で景品を買い集めてクラスでクイズ大会を開いて休み時間を盛り上げたり。…母親が、「ウチの子は友だちにパシリにされてるんじゃないかしら」と心配するくらいの奉仕っぷりだったようです。まあ、みつなり少年は、それが好きでやってたんでしょうけど。。
…『でもそれは、自分の金でCD買うというお前の喜びを、親が奪ってるのや』。
そんな光成少年もだいぶいい歳になってきてしまい、奉仕する相手を選ぶようになってきました。
私が思っていたより、けっこう多くの人たちが、「奉仕され慣れてしまう」ことに気づいたからです。
私が出したくてお金を出したりサービスしたりしているんだけれども、なんだかそれが「当然のこと」になってきていたり。
「ありがとう」がなくなってきたり。
比較的話を転がせる私に、頼りきりになったり。
…自惚れるつもりはありませんが、「甘やかし」は他人をダメにしてしまう可能性がある、ということに経験から気づいてきたのです。
そして、一度甘やかしてしまうと、その後いくら「親しき仲にも礼儀あり」の関係に仕向けようとしても、そこから私が自ら奉仕したくなるような関係に修復されることは、ほとんどありませんでした。
奉仕してもいい相手と、それが「甘やかし」になってしまう相手とを、自分なりに選別すること。
それは、「人を見る目を養う」こと。
紳助氏の言うように、他者の喜びや成長を奪うようなサービスは、いくら自分がしたくてもしてはいけないと、そう思うのです。
