数年前、島田紳助氏の特番をみていて、彼の家の次女についていい話が聞けたので、紹介します。↓


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忘れもせえへんシーンがあんねん、数年前の夏。
能勢の家で夜、みんなでワーワー遊んでる中、当時高校2年の次女がひとりだけ自分の部屋で勉強していた。


そのとき、カチンときて次女の部屋まで上がって行って、
「オマエ、そんなに勉強なんかして何になんねん!」って怒鳴ったら、次女は冷静に、
「う~ん、何になるかわからんけど、人生の選択肢が増える」って答えよった。


ぼくは、そのとき目からウロコが落ちた。
すぐに階段下りていって、台所にいる嫁に、「八歳からの謎が解けたで!」と言った。
「勉強なんかして、一体何になんねん!?」ってずーっとガキの頃から言い続けて、三十数年間かかって、やっとその謎が解けたような気がしたのだ。


そして今年の夏、いまだ趣味のように勉強を続けている次女が、「もういっぺんアメリカへ行ってまた大学へ8年間通って研究職につくか、でも三十歳過ぎて就職もないかもわからんから、やりたくもないけど弁護士になろうかと悩んでんねん。う~ん、どうしたらええやろ?」と言っているのを聞いて、
「これか!高2のとき次女が言っていた『選択肢』っちゅうのは!」と、ぼくは感動した。


ぼくの同級生は高校を卒業する頃、「『ペンキ屋』か『瓦屋』、どっちがええと思う?」とか聞いてきよった。
それで、「オマエ、瓦屋は屋根の上やから暑いで」とかみんなに言われていた。
あの頃のぼくらは、選択肢狭かったよなあ…(笑)。
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…『人生の選択肢が増える』。
その通りだと思います。


「勉強なんて、できなくたっていい」。
「頭でっかちなんて、カッコ悪い」。
…とか言うメッセージが当然のように垂れ流されてる今の時代に、スジの通った正論を言われた気がします。


確かに、子どもたちに『勉強』をつまらなく思わせる授業しかできない無能な教師も、多いと思います。
しかし一方で、「教師が悪い」「親が悪い」と他人のせいばかりにして、「『人それぞれ』じゃん?勉強なんかしなくたって別に生きてけるし」と、『人それぞれ』というのを安易なものに逃げるための言い訳にしている子どもが多いとも、思います。
どちらにも、同情はできます。批判もできます。


でも、勉強が『人生の選択肢を増やす』というのが事実だとは、思うのです。
「自分の知識が豊かになること」。
「話題や興味の引き出しが増えること」。
「ものの見方(視点)をたくさん持てるようになること」。
…別に職業に直結してなくても、こういった『勉強』のメリットは、生きていく上でかなり大きいものだと、思います。


私は小さい頃から父に、「勉強したくてもできない奴は、たくさんいる。部活がしたくてもできない奴は、たくさんいる。せっかくやれる環境にいるんだから、全力でやっとけ」とよく言われました。
そして、ただ成績が落ちただけでは、決して父は私を叱りませんでした。
私の心の中に、少しでも「逃げ」の気持ちがあると、なぜか見透かされ、叱られたのです。
「できない」のか、「やらない」のかを、注意深く見てくれていたんだと、今になってみると、そう思えます。


強制と言われれば、そうかもしれません。
洗脳と言われれば、洗脳だったのかもしれません。
でも、「『やらない』理由ばかりでっちあげて、言い訳ばかりがうまくなって、結果的に自分の人生の選択肢の幅を狭める」不幸を、防いでくれていたんだと、今になってそう思うのです。
そんな父に今さら(苦笑)感謝しつつも、こういうものの見方、こういう選択肢の失い方もあるんだと、伝えて生きていければいいなあ、と、私は思うのです。


…それにしても、ひとり勉強してる次女を「勉強なんかして一体何になんねん!?みんなと一緒に遊べや!」と怒鳴れる紳助氏って、勝手だけど、どこか素敵に思えるのは、どうしてでしょうか?


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