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↓『紳助のメッセージ』(島田紳助著、小池書院、1999)より引用(03)
ぼくは十八歳の時、島田洋之介・今喜多代師匠の内弟子になってね。
あんまり、怒られた記憶というのはないんです。なーんもこだわらない師匠やった。機嫌悪くなるのは、腹が減った時くらい。ぼくが晩メシ作るの遅かったら、
「おう、早よせえよ」
というくらい。二人は夫婦やから、喜多代師匠は洋之介師匠に文句ばっかり言うとったけど。
でも、要所要所では、やっぱり旦那を立てていたし、洋之介師匠も、肝心な時はビシッと言うてた。
たとえば喜多代師匠が、ある弟子のことを、
「あの子はもう嫌いやわ。イヤやわ」
とか言うた瞬間に洋之介師匠が、
「そんなこと言うもんやない。弟子はみんな同じだけ愛さなあかんのや」
って。二人とも、言葉より、身をもって教える人やった。
掃除するのも一緒やったし。
ある時、喜多代師匠に、布団をたためって言われて、たたんだら「アカン」と怒られて。隅が揃ってない、と。
それでもう一回、きれいにたたんだら「そうや」と。
「他人は、あなたのことをじっと見てない。一瞬、見たあなたが、あなたのすべてになる。どっちみちたたむなら、きれいにたたんだほうが得や」と。
十八歳の時教えてもらったそれが、今もぼくの中の基本ですわ。
↑(引用ここまで)
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…『他人は、あなたのことをじっと見てない。一瞬、見たあなたが、あなたのすべてになる。』
「一事が万事」。
たとえば、何か約束をして、一回でも遅刻すれば、「あいつは時間通りに来れない奴」と思われるようになってしまいます。
仮にそれが偶発的なアクシデントによる仕方のないミスだったとしても、結果的にはミスをして人に迷惑をかけてしまっているわけだから、結局それも実力のうちだと思うのです。
何を言っても言い訳にしかなりません。
だって、結局時間を守れてないんだから。
言い訳が通用するのは、何十、何百回と時間を守り続けた奴だけなのです。
毎回毎回時間を守るのは確かにキツいです。
しかし、そのキツさに負けず、日頃から信用を失わないように行動している奴だけに、突発的な「例外」が許されるのです。
「普段から約束を守るあいつなら、しゃあないな」と。
勝負事に「~たら」「~れば」が禁物なのと同じこと。
たとえどんなに惜しい負け方をしたと言っても、結局はそいつには「負ける可能性もある」程度の実力しかなかったのです。
偶発的なアクシデントがあっても平気なくらいの訓練や体調管理をしていなかった。
ただ、それだけです。
言ってることは多少厳しいかもしれませんが、そのくらい「一事が万事」であると意識して行動したいものです。
「試験」と名のつくものにも、いつも同じようなことを思います。
受験(学力検査)。
就職試験。
面接試験。
それらは皆あくまで「検査」なのであって、「普段の実力を、1回のサンプルを抽出することで、検査する」というひとつの手法なのです。
したがって、その1回の検査に向けて「試験勉強」をするという考え方は、本末転倒なはずです。
「身体測定を明日に控えた女の子が、その日だけゴハンをぬいて、なんとか体重を少なく見せたい」のと同じレベルのことだと思うのです。
「意味ないやん」って。
「普段の実力、測れてないやん」って。
そんなのただの理想だと言われてしまえば、そうかもしれないけども。
普段から、そこで働く(学ぶ)にふさわしい実力を身につけるよう努力しているべきなのです。
それで試験に落ちたのなら、「そこで働く(学ぶ)にふさわしくない・実力がない」ということだったと考えるのが普通ではないでしょうか。
「調子が悪かった」「試験の問題が難しかった」なんていう言い訳は、「試験」の意味ががわかってないとしか言いようがありません。
自分に「そこで働く(学ぶ)にふさわしい・実力がある」のかどうか、一回自分の胸に手を当てて考えてみろ、と言いたくなります。
「その目標は、身分不相応だったんとちゃうか?」と。
私は、どんな「試験」に対峙しても、そう考えることにしています。
試験勉強や訓練も、そりゃアホほどしますけど、要は、自分に「ふさわしい実力が身についているか、どうか」。
1回をごまかそうとしたり、日々いいかげんにやり過ごしているようでは、ダメだと思うのです。
