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↓『ぼくの生きかた』(島田紳助著、KTC中央出版、2001)より引用(05)


だけどこれで「のし上がった」のかな、と、疑問になる。
芸能界に入って、有名になって、東京進出して、自分の番組を司会するようになって、おカネをたくさんもらって、大きな家を建てて、外車に乗る。いい女の子に出会う……。
それがぼくの二十代の頃の夢で、それは全部かなえた。
しょぼい。でも、これ以上は無理だとも思う。
じゃあ、ぼくにとっての、仕事のなかでの価値をどこに置いたらいいんだろう。
何を夢と思ったらいいのだろう。
「のし上がり」ではなく、そろそろ、それをつくったほうが、いいのかもしれない。
へちまや野菜以外で、仕事の紳助ブランドをつくることを、始めたい。


みんな、自分のブランドを探している。
それがわからない人は、商品のブランドに走る。かばんひとつに何十万もかける。
もし、自分だけのブランドがわかったら、そっちはいらなくなる。
自分ブランド。ひょっとしたら、それは、他人には理解できないものであるかもしれない。
たとえば、山登り。山登りする人にとって、高いブランドもののバッグを買うねえちゃんは、アホに見える。「かばんなんか、たくさん荷物が入って丈夫なものがいちばん」と笑うだろう。
彼らは、まず「次の休みに近所の山に登ろう」と思う。
次に「信州に行こう」そして「富士山に登ろう」と、少しずつ目標を高くしていく。行き着く先はチョモランマだ。そして、チョモランマに登ったら、次は冬のチョモランマに挑戦したくなるのだろう。その次は世界のチョモランマ級の山に登りきるわけだ。
夢としては、わかりやすいと思う。
わかりやすいけれど、一生かかるところはうらやましい。
やってみたいとは、思わないけど……。
かばんに夢を見るねえちゃんも、わかりやすい。
ナイロンのプラダを買って、ルイヴィトンのちっちゃいのを買って、次に大きいのを買って、誰ももってないエルメスのなんとかというバッグも買う。


ぼくには、山登りもかばんの追求も、どちらも同じに見える。
なんか、同じやん、普通やん、と思う。
でも、一人ひとり、思いは違うのだろうとわかる。
ぼくは若い頃、ヤンキーをやっていた。おっさんたちから見れば「みんな同じヤンキー」だっただろう。
でも、ぼくらは「いっしょにせんといてくれ」と思っていた。
「あの汚いヤンキーとオレらは違う。オレらは靴のかかとは踏んでいない。裾はパッチみたいに短くしてない。カッターシャツかて、白くて汚れてへんで」と。
一人ひとり、確信をもてたらいいんだと思う。自分の価値を見つけたもん勝ちなのだ。


でも、人と同じはつまらないと気がついてしまったら、その価値も夢も消える。
夢はむずかしい。


↑(引用ここまで)
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…そう、『自分の価値を見つけたもん勝ち』なのです。
ゴミのポイ捨てはしない。出先ではゴミは持ち帰る。
ゴハンは肘をついて食べない。クチャクチャ音をたてない。
人と会っているときは、できるだけ携帯電話をいじらない。


「まともに生きたい」。
一度そう思ってしまったら、そうせずにはいられなくなるのです。
「やらなくてはいけないこと」「自分に課せられること」は増えますが、そのぶん「自分の価値」「まともに生きること」への確信も増えていくのです。


口うるさいじじいみたいだって?
そりゃ、できてない奴を見るたびに、「いい歳こいて、そのくらいできろよ」っていつも思います。
でも、なんちゅうか、気づいてしまったから。


「自分の価値」や「まともに生きること」への確信による快感と義務感を一度味わってしまったら、もう引き返せないのです。
ゴミのポイ捨てをすることが、気持ち悪くって仕方がなくなってしまうのです。
自分の行動に一貫性がないことが、気持ち悪くって仕方がなくなってしまうのです。
それに気づいてしまったら、「恥ずかしいことを平気でしていた自分」にはもう戻りたくなくなってしまうのです。
他人にも要求したくなるのは、また別の欲求であって。


『みんな、自分のブランドを探している』。
かばんにカネをかけるねえちゃん。
登山家。
ヤンキー。
アニメおたく。
みんな、とっつきやすいところから入る。それはいい。私だってそうです。
紳助氏が「ほかのヤンキーといっしょにせんといてくれ」と思っていたように、みんなそれぞれに、「思い」はあるのでしょう。


…じゃあ、だからといって、「人それぞれ、何でもアリ」が結論なのでしょうか?
「一見アホに見えても、それぞれの思うところはあるんだろうから、他人のことを否定するなんてできない」が結論なのでしょうか?
ヤンキーがアニメおたくを、アニメおたくがヤンキーを心の中で見下すように、お互いがお互いを見下して、「あいつアホやなあ」って腹の中で思っておしまいなのでしょうか?
それは違うでしょう。


…私が思う結論。
自分だけの「自分の価値」や「まともに生きること」を見つけたのなら、それを示せばいいんだと思います。それも、「わかりやすく」。
この「わかりやすく」ってところが大事。
個人間レベルでの、「洗脳」技術というか。
他人に、「一目置かせる」能力というか。
「自分はこういう奴です」っていうのを「がんばって」わかってもらうこと。
「他人にわかってもらう努力」。
「他人に認めさせる努力」をすること。
これしかないと思います。


自分にとっての「やらなくてはいけないこと」「自分に課せられること」を普段からやって見せるのでもいい。
紳助氏のように、本にするのでもいい。
とにかく、自分がどういう人間なのか他人にわかってもらう努力しろや。
自分オリジナルの「まとも」像、自分オリジナルの「価値」を周囲にわかってもらう努力をしろや。


ただのアニメおたくだと他人から思われてる奴が、いくら自分だけのこだわりをもってたって、表現しないでひとりくすぶっているのでは、それは「自分だけのこだわりをもってない」のと同じことなのです。
「自分だって持ってるのに…」は言い訳にしかならない。
だったら表現しろや。甘えるな。

だから、「きっとあの子だって自分なりの考え方は持っているんだよ」っていうセリフは、安易に言ってはいけないんだと思います。


…これからだんだん暖かくなると、人がたくさん外へ出ます。
道端にゴミを平気で捨てるような、公共の場で平気でケータイを鳴らすような、他人の迷惑を気にもとめない奴が、大勢出てきます。
そのとき、いつも私は自問するのです。
「どうしたらやめさせられるのだろうか?」と。
そして、「それは自分の価値観の押し付けではないのか?」と。
「他人の迷惑を顧みない彼らでも、私とは違うポイントでこだわりをもっていて、私にそれが見えてないだけなんじゃないか?」と。
いつも、そんなことを考えています。


今日は、そんな自問自答に、ちょっとメスを入れてみました。
「『こだわり』は、表現されてはじめて、『こだわり』になる」というメスを。
…あなたの「こだわり」は、うまく表現できていますか?


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