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↓『マムシのan・an』(リリー・フランキー著、マガジンハウス、2003)より引用(09)


近代社会のどこかで、人々はあることに対して大きな勘違いをしたまま現在に漂流しているのである。
それは「理想的な人間関係の在り方について」。
とにかく、何かのタイミングで"50/50の関係"が最上級にいいものだとされてしまった。
甚だ疑問である。そして、たいそう恐ろしい思想である。その上、その発想が100%正しいと信じて疑わない人間が大多数を占めるという点が更に恐ろしい。


そういう人は天秤に100gずつのおもりを掛ける時、すべての100gは同じ大きさだと思っているのである。比重というものを知らない平等狂信者だ。
仕事にも友人関係にもそれは求められるのだが、社長も社員もバイトも同じ力関係の会社があったとしたら3日で倒産して、5日でビルごと解体されるに違いない。だが狂信者は言う。
「米国の若いベンチャー企業はそんな環境を作って、自由に意見を言える場所を(以下略)」
この短いコラムの中でそんな聞きかじりの安っぽい意見に反論しているヒマはない。


友人関係は一見50/50が基本のように錯覚されやすいが、決してそんなはずはない。どちらかが金がある。どちらかはブサイクで、だが片方はオモシロい。そんな1gのおもりの掛け合いでバランスを取りながらもいずれは一方に傾き力関係はできる。
そして、50/50であってはいけないものに一番50/50を求め、間違いもがいている人間関係といえば「恋愛」に他ならない。


「彼とは何でも話し合える友達みたいな関係っていうかー」
この「友達みたいな関係」というのは暗に50/50を指してのことだが、もしそうである付き合いをしているのならこの女は、男とケンカをし、その度殴られ、物を投げつけ、罵倒し、浮気し、男の友人とも寝、果てには愛情は冷め、没交渉になり、そして言うのである。


「なんか、友達みたいっていうか、そんな気になれない」
これが50/50を目指した者のなれの果てである。対等の立場というのは殴られてもいいのであって、そんな時だけ「女を殴るなんて最低」と吐くのも虫が良すぎるし、対等だと思うから浮気心も起きて、性的魅力も感じなくなるのだ。ケンカをするのは仲のいい証拠なんて言葉は昔のダメな人の逃げ口上なのであって、そんなものがいい証拠だったら、世界中が戦争してる。
人の関係、特に男と女は主従関係があって初めてバランスとセクシャリティがあるのだ。


男と女の主従が時に逆転してもいい。殿様と家来、SMのパートナーしかり、美しい力関係には愛を超えた「信頼」と「興奮」が生まれる。バランスのとれた上下関係にある信頼はかけがえがないが、50/50の相手はいくらでも替えが見つかる。つまり、いい恋愛関係とは、表面的には対等であるように見せて、実は役割分担のきれいに分かれた主従関係なのである。


↑(引用ここまで)
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…リリー氏、さすがです。

『バランスのとれた上下関係にある信頼はかけがえがない』。


「主従関係」と聞くと、「おカタい関係」、「古くさい関係」など、基本的人権を無視している強制的な関係に決めつけがちですが、そこにはある種の「美しさ」があると思います。


今でこそ「奴隷制度」なんて聞くと即「人権侵害だ」なんてことになってしまうけども、古代ギリシャの奴隷制度では、ごく一握りの「主人」が、「奴隷」たちが自分から仕えたいと思えるような人格と教養を身につけ、自らを鍛え、競い合うことを欠かさなかったといいます。

「主人」は自由人として教養や運動能力を日々競い合い、「奴隷」は主人の一切の衣食住の世話をし、主人の「自由」が最大限生かされるよう配慮する。

仕えるべき「主人」は、そんな奴隷たちにできる限りの「施し」を与えてくれる。

奴隷たちにとっては、その主人からの「施し」が、この上ない至福です。

現代の日本の会社のように、「上司になるべきでない人間が上司になって、部下を苦しめる」なあ~んていうおかしな逆転現象もありませんでした。

「御恩と奉公」のような、従える側も従う側も気持ちよくその役割を担える、美しい「主従関係」が存在したのです。


「恋愛」でも、そんなバランスの上に成り立っている関係は、美しい。

一方は、能力も経験もある、リードする側(S)。

他方は、大好きな相手がこちらに気持ちを向けてくれることがこの上ない悦びの、リードされる側(M)。

しかし、リードする側も、自分で言うからには、「信頼」を損なうような行動はできません。

日々自分を向上させ続けなければなりません。

「自分だってできてないじゃん!」と言われたら終わりなのです。

同様に、リードされる側も、できる限り相手がリードしやすいように、「どうせやるなら喜ばれるように」やる。

自分で指示を出せないのだから、できないのなら文句は言えない。言ってはいけない。

「じゃあ自分がリードしてみなよ!」と言われたら終わりなのです。


…ちなみに「どうせやるなら喜ばれるようにやれ」というのは、みつなり家の家訓ですが、結局Sの側もMの側も、自分の役割分担に徹することができないくせに相手の文句ばかり言っているようでは、人間としての底が知れているのです。

たとえば、恋人を束縛すればしただけ、それに見合った愛情を注ぐことを怠らないこと。

それができないのなら、束縛なんてする資格はないのです。

彼女に「礼儀作法がなってない」と注意すればしただけ、自分も言われることのないように努めること。

それができないのなら、注意する資格なんてないのです。


普段の何気ない人間関係にも、役割分担に対する「責任」を感じて行動できている人間は、美しい。

自分の役割分担に対するそんな「責任感」や「美意識」を自分で勝手に持っちゃってる人が、私は大好きなのです。

みなさんの周りにも、うまく「役割分担」できてる素敵な人、いませんか?


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