------------
↓『下世話の作法』(ビートたけし著、祥伝社、2009)より引用(29)


俺が何度も言ってる作法とは、突き詰めると「相手を喜ばせること」なの。
相手を傷つけない、相手を嫌な気分にさせない、相手を立てる。そのために気を使う。気遣いはおしつけない。
できれば気を使っていることを、相手に分からせないぐらい気を使う。それで結果として相手を喜ばせればいい。
逆に相手が怒ったら、作法にはずれていることになる。


相手を喜ばせて、いい思いをさせるってことは、実は芸事であってお笑いの世界なんだ。
落語家さんが旦那のことをヨイショして、気持ちよくさせて小遣いをもらっている。それが大勢の客前ならギャラをもらう芸になる。


そうすると、芸人のくせして作法がなっていないやつは、要するに芸がないわけ。相手を喜ばせる才能がないんだ。
「何だ、こいつ。挨拶もできないで失礼な」と言われちゃう芸人は、舞台に出ても誰一人笑わせることができないことになる。
客をみんな笑わせようと言うのなら、誰に対してもいい思いをさせなきゃらならない。


芸のある芸人は、演芸場だったら下足の揃え方から楽屋の入り方、化粧前の片づけ方、全部ちゃんとしていて、挨拶もできる。
作法にはずれていないから、まわりの人はいい気持ちになる。
それにそういう芸人は、必ずと言っていいぐらい腰が低いしね。誰にでも頭を下げて「どうも」「すいません」って言える。


園芸場から外へ出れば通行人になるけど、相手を心地よくするということはどこでも同じだから、路上でも電車の中でも作法ができる。
席を立つのも当たり前だし、年寄りの手を引いて横断歩道を渡る。
食い物屋に入ったら汚い食い方をしないとか、でかい声を出して騒がない。


↑(引用ここまで)
------------


結局のところ、異性に「キュン」としたり、職場で「こいつ、やりよるな」と尊敬したりするのは、「(意外に)ちゃんとしていること」「気配りができていること」だったりします。
それは、何も私のような「気配り」大好き人間でなくても、です。


ケバいおねえちゃんにしろ、チンピラ風のおにいちゃんにしろ、みなさんそれぞれがお持ちの「人を好きになる」「人を”評価”する、認める」ポイントは、蓋を開けてみれば、「挨拶がちゃんとできる人」だったり「ドアを開いたまま次の人を待っている人」だったり、「自分以外の人に対する気配りやマナー」に集約されるのではないでしょうか。


逆に言えば、自分のことばっかりで、周囲に対する気配りのない奴は、誰からも評価されない。ひとりの「人間」「異性」として扱ってもらえない、ということです。
「誰かに評価されたい」なんていう動機はガキっぽいのかもしれませんが、自分を鍛え、向上させるきっかけとしてはそんなんでもいいんじゃないかな、と私は思います。


「ここでこう行動をしたら周りの人は気持ちよく過ごせるだろうな」と気づき、行動することに悦びを感じるよう、自分の心をコントロールする。「そうしたい」自分に、自分を高めていくクセをつける。
日に日に自分の行動のレベルが上がっていくのを実感できるし、周囲の人にも「あいつ、やりよるな」と思わせることができます。
…なんで、みなさんやらないんですかね(笑)?


自動車が右折(左折)してくるのが見えたら、横断歩道を会釈しながら小走りすればいいのに。
レストランで食事し終わったら、食器をまとめてテーブル拭いて、店員さんが片づけやすいようにすればいいのに。
自宅やお店の玄関で靴がバラバラだったら、(他人の靴を触るのは気持ち悪いけどw)きれいに揃えればいいのに。
…なんで、みなさんやらないんですかね(笑)?


ゴハンを食べに出かけても、店員さんを見ながら「そんなに忙しくないはずなのに、なんでお客さんの水がなくなっていないか、下げる食器はないか、気を配らないんだろう?」「なんで”いらっしゃいませ””ありがとうございました””失礼いたしました”は言うけど、マニュアル口調なんだろう? もっとお客さんの目を見て心を込めて言えばいいのに」「そんなんで、どうしてあの人は接客業をやっているんだろう? 働いていて楽しいんだろうか?」と、そんなことばかり考えてしまいます(笑)。


結局は、「気配り」。
「自分のことはさておいて、他人様に気持ちよく過ごしてもらえたら、嬉しい」という気づきと向上心を持ち合わせているか、どうか。
人間の「価値」にはいろいろな要素があるのでしょうが、その中でも「気配り」が占めるウェイトの大きさを、いや、そのほとんどが「気配り」なんじゃないかと、思い巡らす今日この頃でした。


ペタしてね