------------
↓『下世話の作法』(ビートたけし著、祥伝社、2009)より引用(19)
俺なりに健さんはどうしてかっこいいのかなと考えたら、そうやって気を使うということと、あとはやっぱり孤独だからじゃないのかな。「孤高」と言い換えてもいいけど。
人とよけいな関係を持たないようにしてるし、健さんも自分の世界を絶対に人に押しつけない。
けっこう冗談が好きで、よく笑う人だけど、そういう素の顔を見せるのは限られた仲間にだけで、外に出る時は素を晒せないというか、「高倉健」を演じなけりゃいけない。だから外にも出ない。
結果的には「高倉健」のイメージがじゃんじゃん膨らんじゃって、本人は孤独だという。
粋であることは地獄みたいなところがある。
あとでまた言いたいけれども、他人に優しくて気を使って、なおかつかっこいい、すごい人ですと思ってもらうのは、本人にとってはきついことなんだ。
(中略)
高倉健は死ぬまで高倉健を演じないといけない。
まわりのあらゆる下品を引き受けて、身代わりとして一人「粋」でいなけりゃいけないから。
でも、それをやり遂げてしまうところが、また粋でもあるんだ。
↑(引用ここまで)
------------
会話が転がっていなければ自ら「ボケ」役を演じ、いじられる。
内心仲良く思っていない人にも、愛想よく、気分よく応対する。
いつでも気前のよい、明るい「みっちゃん」を演じる。
…手前味噌ではありますが、ふだんの生活の中で、自分が好きで「演じて」生きていることと、周囲からの期待へ応える「義務感」からそう振舞っていることと、微妙なところも、そりゃあ少なからずあるのです。こんな私でも。
とはいえ、そうして「演じる」「演じさせられる」ことで、自分を鍛え、高めていっているというのも、また事実だと思うのです。そんな自己完結な毎日ですから、そりゃあ「孤独」も、感じます。
「高倉健」とはいかないまでも、そんな「粋」を振りまきつづけて死んでいきたいと、思うようにもなってきています。
…しかし、「他人に合わせすぎて、本当の自分が出せなくて、疲れちゃう」「ありのままの自分を受け入れてくれる親友や恋人がほしいな」なんて、どこぞの中学生女子やOLが言ってそうな愚痴には苦言を呈しておきたい。
それは、「周囲から期待されている自分」と「自然体の自分」を近づける努力を怠っているだけやろ、と。
他人に依存したり、気遣いや配慮の全くない、向上心のかけらもない、「ありのまま」のオマエなんか、誰も認めてくれへんやろ、と。甘ったれるんじゃねえ、ガキが。
私は、「みつなり」という役割を引き受けて、死ぬまで「みつなり」を演じ続けなければいけない。
また、これだけ大衆化、多様化の進んだ現代において、大きな「帰属意識」「安心感」などもはや幻想にすぎないのですから、イヤでも「孤独感」と日々付き合わざるをえないのです。
だから、どうせ「演じる」なら、「粋」で、気前よく。周囲の人たちが喜んでくれるように。
どうせ「孤独」を感じるなら、そこに「気持ちよさ」を感じられるように、自分の心をコントロールして。…ナルシストと言われようとも。w
少なくとも私は、そんなふうに気合いを入れて、毎日自分なりの「粋」を振りまいて暮らしているのですが、みなさんは、どうでしょう?
「高倉健」ばりの「義務感」や「配慮」や「粋」を、振りまきながら、気持ちよく生活してますか?
