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↓『ニーチェ入門』(西研・森一郎ほか著、河出書房新社、2010)より引用(07)


奴隷制というのは、近代の人道主義的観点から言いますと、とても容認できない悪の最たるものです。
それなのにニーチェだけでなくアーレントも、古代においては奴隷制には大きな意味があったと平気で言います。
他人の労働を踏み台にし、そこに自由を確保する。
そういうふうにしてしか人間は自由を享受できない。
このことをよく弁え、かつ向上心に燃えていた古代人は、自由のために人に犠牲になってもらい、奴隷制を基盤として政治的、哲学的な活動にいそしんだ。
自由人はこれをあっけらかんと開き直ってやった。
自由を求めることはそういう影に付きまとわれざるをえないのであり、そのことは人間の条件として否定できないのだ。
労働論の中でアーレントはこういう話をしています。
古代奴隷制の意味づけというか正当化であるわけですけれども、ニーチェにも似たような奴隷制肯定論があります。一種の自由論ですから、スコレーを基盤とする学問、自由学芸の問題でもありますね。


自由というキーワードでもって奴隷制を二人が同じように意味づけた点は、注目してよいと思いますね。
先ほどのヒューマニズムの問題と似ていまして、古代的な考え方――ギリシアだけでなくローマも含みますが――を、一つの可能的視点として自分の中に持つ。
古典古代は立派だと崇め奉る態度ではなく、近代という時代の特異性を浮かび上がらせるにはそれとは違う発想を自分の中に持つことが重要だ、ということです。


たとえば、フーコーが『性の歴史』を書く際に、近代における性のいろんな道徳や科学を批判して第一巻を書きます。
けれども、それをさらに進めるために、第二巻、第三巻で古代ギリシア、ローマまで行ってしまう。
あれはべつに筆が滑ったということではないですよね。
近代を考えるうえで、近代とは違う思想を持ってくる必要があるのです。
近代のクソまじめな性のモラルとは似ても似つかぬ性に対する禁欲的工夫が古代に開発されていたことを置いてみると、そこからもう一度近代に帰ったとき物事がよく見えてくる。


↑(引用ここまで)
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ニーチェやアーレントが「古代ギリシアの奴隷制には、”自由”と”労働”の本質が見える」と言えば、「おまえは”みんな平等”であるはずの基本的人権を無視した”奴隷”なんてものを肯定するのか?」と批判されます。


みつなりが「里中李生氏の言う”男と女はもともと役割が違う”という視点は、”平等”を考えるうえで、重要な視点だ」と言えば、「おまえは男女差別を肯定するのか?」と批判されます。


はたまた、みつなりが「岡田斗司夫氏の言う”自分の気持ち至上主義”という視点は、”家族”や”結婚”を考えるうえで、重要な視点だ」と言えば、「おまえは”結婚しない人生”とか”結婚せずに子どもは育てる人生”なんかを肯定するのか?」と批判されます。


…私はそういう短絡的批判や、「逆に自分のアタマが凝り固まってはいやしないか?」という複数の視点を持とうとしない姿勢を見ると、とてもやるせない気持ちにさせられます。


「自由」「平等」「民主主義」などと私たち現代人は平気で言っているけれど、どういう経緯でそれらの概念が生まれてきたのか、それらがどれだけの危険性を孕んだものであるのか、わかっているのでしょうか?


「結婚」「家族」「男女平等」などと私たち現代人は平気で言っているけれど、どういう経緯でそれらの概念が生まれてきたのか、それらが互いに矛盾する関係の概念であるということが、わかっているのでしょうか?


…私は、里中李生氏や岡田斗司夫氏、ここで読ませてもらっているすべての人たちの文章を盲信的に「すべて正しい」と崇め奉っているわけではありません。
ニーチェやアーレントが、古代ギリシアのものの見方を『可能的視点』のひとつとして捉えているのと同じように、私も彼らの視点を『可能的視点』のひとつとして捉えようとしているにすぎないのです。


しかし、そういう視点をハナから「非民主的だ」と除外したり(その「民主的」=「正しい」という思考ルーチンそのものへの異議申し立てをしているのに、です)、聞いただけで拒絶反応を起こしたりする多くの現代人にこそ、こういう『可能的視点』をもって物事をクリアに見てほしい、「現代では”不道徳”とされるかもしれないけど、その視点もアリだ」と言える国民性であってほしい、と私は思っているのです。
…そして私は今日も、新たな『可能的視点』を求めて、『物事をよく見る』ために、本を読み、文章を書くのでした。。


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