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↓『ニーチェ入門』(西研・森一郎ほか著、河出書房新社、2010)より引用(06)


これは私だけの思いかもしれませんが、「いのちを大切にしよう」というモラルはせっせと説かれても、「人命より大事なものがある」と説くのはどうも憚られるところがあります。
そういう近代の趨勢に対して違和感をおぼえる者が若干いて、大昔以来のころのヒューマニズムの問題を哲学的な問いとして展開したのが、ニーチェやハイデガーであったのだと思います。
アーレントにもヒューマニズムへの問いが濃厚にあります。
もっと言うと、いわば「ヒューマニズムの系譜学」をアーレントは様々な角度から手がけていて、そういった繋がりも三者にはあると思うんですね。


↑(引用ここまで)
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人がものを言うときは必ず「意図」がある…それは、「どうして人を殺してはいけないの?」「どうして自殺しちゃいけないなの?」といった類(特に子ども)の発言に、顕著にあらわれると思います。
たいていの場合、そういった「問い」に哲学的探究心などなく、「自分では答えを見つけ出そうとせず、安易に”解答”を求めようとする」依存心だったり、「どうせ誰もが納得できる答えを言える大人なんていないんだろう?」という欺瞞心だったり、そういった「いやらしさ」が発言の「意図」として潜んでいる、と思うのです。
…「調子に乗るな、ガキが」と横っ面を張り倒してやればそれで済む程度の「いやらしい」気持ちが。


また一方で、「いのちを大切にしよう」「地球に平和を!」とかいったイメージ先行型の「人命至上主義」も、目に余るものがあります。
「いのちを大切に!」「いのちを大切に!」といくら声高に叫んだところで、逆にその根拠の薄さ、「自分の気持ち至上主義な世情」と「”人を殺めてはならない”という初歩的な社会契約」の矛盾を浮き彫りにするだけで、むしろ民「主」主義の現代に、「他人の作ったモノや娯楽を消費するだけの奴隷的な(ちっとも「主」人的でない)人間にも、”生きているだけで”十分価値がある」なんていう”衆愚”を容認するメッセージを発しているとさえ思えます。


「いのちが大切で尊いのはもうわかった! ではその”いのち”を与えられたキミは、その”いのち”をどう生きるのか?」
「ただ”生きている”ことよりも、私たち”人間”がもっと大切にすべきことだってあるのではないか?」
…なんて言おうものなら、生まれながらに障害を抱えた子どもやその家族、はたまた戦争当時のありがた~いお話なんかを引き合いに出して、「いのちよりも大切なもの、重要なことがあるなんて、あってはならないことだ!」「生きているだけで、じゅうぶん素晴らしいことじゃないか!」と、まあそこまで捲し立てられないにしても、「この人、何を言っているんだ?」と訝るような眼で見られるのが関の山でしょう。


…”いのち”は確かに大切かもしれない。でも、「人間的”生”とは?」「ただ”生きている”ことは果たして人間として”生きている”と言えるのか?」という問いや哲学的向上心を封じてしまうほどの「人命至上主義」「ヒューマニズム」はいかがなものか、と私は思うのです。


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