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↓『学校嫌い』(江川達也・山田玲司著、一迅社、2007)より引用(11)


江川:なんで意外な展開をするのかというと、みんなの頭のなかで、これが快感っていうパターンがあるじゃない。それをシステム替えする。だから、これが定番とかいうのがあるけれど、根源的に考えるとこれがOKなら、こっちもOKでしょみたいなのがある。それを見つけると、べつの道筋でそっちにもっていける。


高等数学というのは実はそういうことなんですよ。それまでのパラダイムみたいなものを違うパラダイムとか、いろいろ考える。みんなは発想がもう固定化されているから、ある人のやったパラダイムのなかでものを考えるけれど、先端では新しい数学を作る。新しいつじつまの合う発想をする。


だから、もしかしたらここは違う方向に行ってもつじつま合うでしょう? っていうストーリーをデビューした頃からやっているんだよ。
あの当時、20、40ページ全部夢オチなんてなかったわけじゃない? でも、ありなようにつじつまを合わせることができるんじゃないかと。だから『BE FREE!』は新しかったし、発想においても『BE FREE!』たれ、なんだよね。


↑(引用ここまで)
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「快感」のパターンのシステム替え。やって見せること。
私も「大人」と呼ばれる歳になって、「意外な、自分の姿を見せる」ことを意識しながら生活しているような気がします。
それは、「自分は人と違うことをしている」という優越感というよりも(確かに若いころはそういう面が大きかったのですが)、何というか、「役割意識」とか「義務感」とかいうものに近い動機が、そこにあるように思います。


たとえば、「誰に対しても失礼にあたらない、無難な言葉遣い、無難な服装も結構だけれども、あんまり形だけが続いてしまうと、言動や生き方も無難になってしまうよ」というメッセージ。


人とのコミュニケーションの中で、そりゃ「相手に失礼のないように」できることがベースなのですが、「ちょっと失礼な」「ちょっとウィットに富んだ」「意外性を含んだ」、人との接し方を体現して生きる。


その一方で、目上の人や先輩などに対して、礼を尽くす。気配りを怠らない。「自分の個性など、どうでもよい」くらいに思って、先を見てフットワークよく動く。先回りしてドアを開けておく。「私が行きます!」と率先して言う。


…そのどちらもが、「いつも無難に行動しがちな人」や、逆に「言葉遣いなんてどうでもええやん」みないな人への示唆を含んでいると、私は自覚しながら行動しています。


「無難」ばかりではおもしろみがないし、かといって「礼儀」を軽んじてもいけない。
そのどちらも併せ持つことの重要性を(恐れ多くも)体現して生活するように努めているのです。
そういう意味では、ひとつの「洗脳」と言えるのかもしれません。


しかし、そうは言っても私など、江川氏ほど『”快感”のパターンのシステム替え』の見せ方がうまいとは到底言えませんし、今の例で言うと「礼を尽くすこと」と「おもしろみのあること」のバランスも、まだまだ発展途上です。
「他人に影響を与える」なんて、当然のことながら簡単にはいきません。


「思考すること」と「経験すること」と「見せ方」。
そのどれもを磨いていかなければ、「自分がここに生きていること」が埋もれてしまうように思え、私は今日も自分の「見え」や「見せ方」を意識して生きるのでした。。


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