1年ほど前、友人に誘われて、珍しく映画を観に行きました。
(これからDVD等で鑑賞予定の方は、ネタバレにご注意を!)


その内容は、シングルマザーの中学教師・森口(松たか子)が一人娘を保健室に待たせて仕事を終える、という日々を過ごしていたところ、ある日彼女のクラスの2人の生徒が彼女の娘を殺してしまったが、事故死として扱われた、という「告白」を1年生最後のホームルームでクラス全員の生徒たちの前で話し、教師をやめていくという場面から始まります。


詳しくは原作を読んでいただくとして、何より前半部分の典型的な「未成年による殺人」「犯人を神格化して崇拝する中学生」「大人をなめきった中学生」「イジメ」「マスコミの過剰報道」などの演出は、秀逸です。
…とにかく「典型的」というか、「いわゆる」モノの表現の列挙が続くのです。


しかし人は「典型的」「いわゆる」なものを見ると、「自分は違う」「自分だけは大丈夫」といった「優越感」にも似た、「自分だけがものを斜めから見れている」感覚に陥りやすいもので、「自分にもそういう”キモチワルイ”部分があったはずだし、今だってあるかもしれない」という視点の重要性を感じながら観ました。


もうひとつ、この作品のテーマでもある「復讐」と「更生」について。
森口は独自の手段や計画性を武器に、少年たちに対する「復讐」を行っていくわけですが、「復讐相手に自分のしたことを心から理解させる」ことこそが「復讐」であり、「更生」の第一歩ではないか、と最後に言い放ちます。
世に数多ある「復讐」と呼ばれるものは、自分の気持ちを慰めるものばかりである、と。
復讐するその相手が、自分の行いや被害者・その遺族の気持ちに心から気づいたとき、初めて「復讐」になりえる、と。


しかし、それが森口の夫だった「世直しやんちゃ先生」桜宮の言う「誰もが更生できる」教育的意味をどのくらい含んでいるかは、微妙なところだと私は思います。
この映画を一緒に観たY君との論点もここでした。


「相手にわからせたい」「自分が”正しい””そうあってほしい”という方向に相手を誘導する」といえば聞こえはいいですが、それが「自分のエゴ」「ただの押し付け」なのか、「教育」「相手のため」なのかは、このところ【哲学】でも紹介させていただいている岡田斗司夫氏の『洗脳』に通ずるものがあります。
「復讐したい」。
「あいつにわからせてやりたい」。
「自分の思いを伝えたい」。
それは、どの程度「教育的」で、どの程度「ただのエゴ」なのか。
それは、どの程度「相手のため」で、どの程度「自分を満足させるため」なのか。


学校の先生の「教育」活動だって、「生徒を(あくまで教師が”正しい”と思う)良い方向に誘導することができたという満足感」を得るためにやっていると言えなくないはずです。
現に、「自分の満足」「自分という人間を認めさせる」に傾いた教師も、かなりの数いらっしゃるのではないでしょうか。。


…人間の言動はすべて「洗脳行為」でしかありえない。
そんなことを再び想起させられた、映画『告白』でした。。

ペタしてね