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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(11)


みんなが「モノ不足」を認識し始めてから、労働や生産という活動の重要性がどんどん小さくなってきています。ブルーカラーになりたい人、ホワイトカラーになりたい人の数が激減してきています。が、教育システムは近代のままなのです。
当然、これによってさまざまな齟齬が生じ始めています。登校拒否やいじめの問題も、その一端なのかもしれません。


一番の問題は、教育の目的をだれも胸を張って言えなくなったことでしょうか。「ちゃんと学校を卒業すればあこがれの都会で働ける。真面目に勉強しなければ田舎で百姓だぞ」と言われれば、一時代前、近代の若者ならみんな、いやいやでも学校に行きました。が、現代は違います。


そんなウソは、バレバレなのです。ちゃんと学校に行っても、あとで何もいいことがないことをみんな、知っています。今、学校へ行っている人の動機は、「みんなが行っているから」しかあり得ません。その「みんなと同じことをする」という近代最後の価値観さえも、マスメディアの不信によって崩れつつあります。


↑(引用ここまで)
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…『労働や生産という活動の重要性がどんどん小さくなってきています』。


これはもう周知の事実だとは思うのですが、いまだに多くの人が目をそむけている事実でもあると、思います。
「人は誰でも、なんだかんだ言っても”お金を稼ぐこと”が大きな関心事であるはずだ」
「人は誰でも、なんだかんだ言っても”モノを作ること”が大きな関心事であるはずだ」
…なんていう『近代の価値観』をいまだに心のどこかで信じ続けている人の、何と多いことでしょう!


しかし現実は、だいぶ変わってきています。それは、若者たちの変化を見ていればおわかりいただけると思います。
彼らは、「不況、不況」と聞かされながら将来の漠然とした不安のなかで育ち、「自分が本当にしたいこと」「自分に向いていること」「自分が楽しいと感じること」を、本気で追求して生きています。
”経済”や”労働”をどのくらい重要視して生きるのか、”レジャー”や”趣味”をどのくらい重要視して生きるのか、それは「ひとりひとりの判断に委ねられている」と100%信じて生きているのです。


しばらくフリーターを続けて、”趣味”や”サークル活動”に明け暮れるのも、本人さえ納得できる生き方ならば、それはそれでOK。
将来どうなるか不安だから、がんばって勉強して公務員試験を受けて、”安定した収入を得る”ことを重視した生き方をするのも、本人さえ納得できる生き方ならば、それはそれでOK。
他人にとやかく言われる筋合いなんて、ないのです。


しかし、彼らの父親・母親世代の人たちは、「本人の納得」<「経済的に生きること」という『近代の価値観』が、どうにも拭えていない気がしませんか?
また逆に、「公務員を目指しています」という若者を、「今の若者は夢がない」と、一方的な目線のみで切り捨ててしまっている気がしませんか?
テレビも、新聞も、若者たちのことをそんな目線でばかり「心配」している気がしやしませんか?
…私は、”大人たち”の言動の端々に、どうにもそんな「自分の生きてきた時代の価値観の盲信」を感じてしまうのです。


誰もが”経済”や”労働”を第一優先事項として生きているわけではない。
誰もが”夢”や”高い目標”を第一優先事項として生きているわけではない。
むしろ、「自分のしたいこと」を突き詰めていったら、”メシの種”とは関係ないことの方が、実は多いのかもしれません。


別にここで「若者擁護論」を展開するつもりはないのですが、「価値観の多様化」なんてわかったふうなことを言いながら、結局は「多様さ」を認められない自分に気づいていないそんな”大人たち”に異論を唱えたいと思い、こう書きました。


「なになに、”趣味”や”サークル活動”は二の次にするのが”正解”なの?」
「なになに、”夢”を持っていればそれが”正解”なの?」
…自分の”正解”ありきで「心配」「世を憂う」ような自分ではいたくないと、そう思います。。


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