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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(10)


今起こりつつあるパラダイムは「モノ不足」、つまり「資源・土地・環境に対する有限感」から成り立っています。いかにモノを使わないか、いかにモノを作らないか、が重要な社会ともいえます。


そこでは土日も働くお父さんは、みっともなく見えてしまいます。
働きすぎることは資源を浪費し、環境を破壊する悪徳なのです。ただお金を儲けるため働きまくるのは、自分を大切にしない、恥ずかしいことです。自分たちがお父さんたちと同じ会社に入って、企業戦士として働かされるなんて、とんでもないことですね。


だから、若者たちはアーティストやプログラマーや研究者といった、資源をほとんど浪費しない職業に就きたがります。が、残念ながらそういった専門職の知識は高校でも大学でも教えてくれません。仕方なく専門学校に入り直したり、フリーターをしながら独学したりします。


そんな彼らを、お父さんたちは「いつまでも大人になれないモラトリアム族」と怒ります。
本当にそうでしょうか。ひょっとしたら彼らは「別の形の大人」になろうとしているだけ、とは言えないでしょうか。
少しくらい貧乏でもいい。
将来の保証がなくても構わない。
最低限食べるだけのお金があればよしとして、たくさんお金をもらうために意に沿わない仕事に就くことを潔しとしないのです。


こうして「モノ不足」の社会では、必然的に「時間余り」現象が生まれます。
フリーターや学生である彼らにとって、時間はたくさんあります。その時間をいかにうまく使うかが、彼らの重要な課題になります。
この前までは時間の余った学生はバイトをするか、遊ぶかだけでした。
つまりモノを作るか、モノを使うかだけだったのです。


が、今の学生は違います。彼らは自分を豊かにすることに時間を使いたいと言います。自分を見つめ、自分を清めるために祈った中世の人たちと大変似ている発想です。


↑(引用ここまで)
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…『そこでは土日も働くお父さんは、みっともなく見えてしまいます』。
…『そんな彼らを、お父さんたちは「いつまでも大人になれないモラトリアム族」と怒ります』。


ここまではっきり言わなくとも、こんなふうなすれ違いは、いまだに多いと思います。


「なんで今の若者は、何事にも一生懸命に、がむしゃらにならないのか?」
「なんで今の大人は、個々に”幸せの形”が違うことを、認めようとしないのか?」


こんな”なんとなくの不信感”は、払拭できないものでしょうか?
確かに若者は、ある程度の「強制力」や「高い目標」がないと易きに流れてしまうのも事実だし、大人だって、一昔前の自分の成功体験ばかりを人に押し付けがちです。でも、「自分がなぜそういう思考回路になってしまったのか?」というメカニズムや時代背景の違いを認識するコツさえ掴むことができれば、きっともっと他者への配慮と理解を深めて接することができるようになるのではないか、と思うのです。
…まあ、「”他者への配慮と理解のあるコミュニケーションができる自分”に価値を置く提案自体、価値観の押し付けだ」「そんなことできなくたって、べつにいいじゃないか!」と言われたら、「いやいや、ただの”おすすめ”ですよ」程度にしか答えることができませんが。。


しかし、想像以上にこういった垣根は大きいと思います。
若者の「人それぞれでいいじゃないか!」を認めてあげる内容の記事が並んだ雑誌は街にあふれかえっていますし、オジサマ・オバサマ方の「昔は良かったなあ」を満たしてあげるテレビ番組や映画などはいまだにヒットし続けています。
みんな、こんな「なんとなくの不信感」「自己肯定してほしい気持ち」をうまく処理できずに、悶々と過ごしているんだろうなあと、ない頭で想像しつつも、「満たしてあげる」だけでは何の解決にもならないのになあと、あれこれ考えてしまうみつなりでした。。


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