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↓『ぼくたちの洗脳社会』(岡田斗司夫著、朝日文庫、1998)より引用(08)
思考法だけでなく、「自分」というものに対する考え方も、大きく変わりました。
中世ヨーロッパでは、「自分」は神様の思し召しで生まれてきて、神様の思し召しで天に召される存在でした。神様という、いわば他人まかせのものだったのです。
神様によって農民の子として生まれてきたのだから、「なぜ農民じゃなきゃいけない?」と考えたりはしません。それよりは、農民としてちゃんと生きること、その中でいかに一生懸命祈ったり、施しを与えたりするか、が頑張りどころ、プライドの置きどころだったのです。
が、産業革命以後、これは全く変わってしまいました。
自分がどんな自分であるかは、自分自身で考えて決める、他人まかせにはしないというのが、現在の当たり前の考え方です。
自分で決めるといっても、その時その時で好き勝手をやるというのではありません。自分はどうあるべきか、自分にとってなれそうな立派な自分とはどんな自分かを考え、それを目標に頑張るということです。
こういう「あるべき自分をちゃんと思い描いて頑張っている人」のことを、「自我が確立している人」と呼びます。
みんなが行くから大学へ行く、みんながなるからサラリーマンになる、ではいけないのです。
そうではなく、「人間は社会に貢献しなければいけない」という自分の考えと自分の能力を考えて、サラリーマンを選んだり医者になったらい警察官になったりするべきだ、という考え方です。
これはもちろん職業だけでなく、あるべき夫や妻の姿であったり、あるべき父親像・母親像であったり、あるべき国民の姿であったりもします。
産業革命以降、ヨーロッパやアメリカでは、特にこういう「自我の確立」が何よりも大切だとされました。
「神様が決めた通りに生きる」という枷がなくなったぶん、一人一人が自発的に立派であってもらう以外、社会秩序を保つ方法は一つもないのですから、当然のことでしょう。
しかしそれはまた、とんでもなく難しく、面倒くさいことだったのです。
↑(引用ここまで)
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私がこれまで200回以上に渡ってここで書いてきたことは、そのほとんどが、この『自我の確立』を促すためのものだったと言えるかもしれません。
そしてそれは、『とんでもなく難しく、面倒くさい』。。
今の自分が置かれている状況は、神様のせいでもなく、親兄弟のせいでもなく、すべては、「自分のせい」です。
もう他人のせいにはできない、少なくとも「他人のせいだ」を真の正解とは思えない思考ルーチンが行き渡ってしまった、そんな「現代」に我々は生きているのですから、せめて「自分としての判断基準」をもって、生きていきましょうよ、と。
そしてそのついでに、私の経験と思考から生まれた、こんな「判断基準」はいかがですか? とおすすめして歩く200回だったのかもしれません。
押しつけがましく感じられていたら、ごめんなさい。
ただ、美味しいケーキや素敵な歌をおすすめされるのと同じような感覚で、私の話を受け止めていただけると、嬉しく思います。
私はなぜ、こんな文章を書き続けているのか。
「できない人」を見下して、優越感を感じたいだけなのか。
漠然と「自分の影響を与えたい」「自分の爪痕を残して死んでいきたい」と思っているだけなのか。
だとすれば、自分のすべきことは、いったい何なのか。
…少なくとも、「人にものをすすめるときは、謙虚な気持ちと言い回しを忘れずに」!
こんな「ひとつの判断基準」をおすすめして、みつなりは今日もまた、書き続けます。。
